社会は思いっきり”暗記科目”です!
「暗記なんてメンドクサイな~」
そう思った君!はい正解!
暗記科目はメンドクサイんです。
でも逆に言えば…
覚えるだけで確実に点数が上がるのも”社会”なんです!
中学校の社会のテストでは、その場で考えれば分かる問題や、意見を聞かれる問題は出題されません。
事前に正しい知識をどれだけ知っているかが重要。
社会は地理も歴史も身近な内容なので、旅行に行った時やニュースで話題になったときに、そのキーワードを知っているとなんだか得した気分になりますよ。
このページでは、定期テストの点数UPや、将来トクした気分になるために最低限覚えておいたほうがよい”中1社会”のキーワードをまとめています。
ひととおり眺めるだけでも社会に興味を持てるはずなので、少し長いですけど読んでみてください。
中学生からの社会は、地理と歴史(中3からは公民も!)に分けて学習していきます。
こんなページも見られています!
>>中学1年生の教科別学習ポイント
>>中学2年生の社会(地理・歴史)
>>中学3年生の社会(公民)
2021年4月から中学校の教科書が全面的に改訂され、新しい学習指導要領による授業が開始されました。歴史・地理・公民のすべての教科書に「SDGs」がモリモリ。グラフデータや資料の読み取り力も必要となり、これまでのような暗記だけでは対応できなくなりました。
もっと詳しく知りたい!
>>2021年からの社会は暗記だけじゃない!
~中学1年生の【地理】~
~中学1年生の【歴史】~
~中学1年生の【地理】~
~中学1年生の【歴史】~
中学1年生の【地理】
世界の姿
中学1年の社会の地理分野で、最初に学習するのは「世界の姿」です。
世界地図などの資料を見ながら、イメージしながら覚えていきましょう!
★世界の姿★
①六大陸と三大洋
ここでは、地球のおおまかな見方と特徴、大陸と大洋の名前と位置や日本の位置をつかむことがポイントです。
私たちが住む日本はアジア州の東アジアに位置する国です。
他にどんな州があって東アジアの他にどんな分け方があるのかを見ていきましょう。
■ 六大陸と三大洋
地球上には海洋と陸地があり、
割合はおよそ「海洋:陸地=7:3」。
海の部分が多く「水の惑星」と呼ばれてます。
映画で「猿の惑星」っていうのもあるから、間違えないでね。
「六大陸」とは、面積の広い順に、
②アフリカ大陸
③北アメリカ大陸
④南アメリカ大陸
⑤南極大陸
⑥オーストラリア大陸
「三大洋」とは、広い順に、
②大西洋
③インド洋
六大陸と三大洋は、中1初めの中間テストで必ず出ます!
世界地図を見ながらそれぞれの位置を答えられるようにしておきましょう!
テストではこんな感じで出るので、空白の部分を入れてみよう!
下はそれぞれ「六大陸」の大陸名を入れてね。
下はそれぞれ「三大洋」の海の名前を入れてね。
ちゃんと埋められましたか?
↓↓答えはこちら↓↓
六大陸の答え
三大洋の答え
大陸名と海の名前を、場所と一緒に覚えてね!
大陸の中でも、例えば一番広いユーラシア大陸は、ロシアにあるウラル山脈を境にして、ヨーロッパ州とアジア州に分けられます。
また、北アメリカ州と南アメリカ州は、パナマ運河が境になっています。
また、日本はユーラシア大陸の近くですが、島国ですので大陸には属していません。
このように、島々を含めた地域区分が存在し、世界は大きく6つの州に分けられています。
■ 世界の6つの州
・ヨーロッパ州
・アフリカ州
・北アメリカ州
・南アメリカ州
・オセアニア州
■ アジア州の中の6つの地域
またアジア州も、細かく6つの地域に分けることができます。
・中央アジア
・南アジア
・東南アジア
・東アジア(←日本はココ!)
・北アジア
世界の地理では、まずは大きな視点で世界地図を見ながら、大陸・海洋・州の名前と位置を覚えてください。だんだんと細かく複雑になっていきますよ!
★世界の姿★
②いろいろな国と位置
2020年といえば東京オリンピックが開催されます。他にもサッカーワールドカップでも多くの国が参加します。
世界にはどのくらいの国があるのでしょうか?
そもそも国とは何でどのような特徴があるのでしょうか?
ここが今回のポイントです。
■ 約190の独立国
国とは、一定の領域をもってそこに住む人々を統治する社会のことです。
世界には現在、約190の国があります。
■ 国の三要素
国としてみなされるための3つの条件があり、それを国の三要素といいます。
国の三要素とは次の3つのことです。
■ 国の名前と国旗
それぞれの国の名前や国旗には、その国の自然や歴史、宗教などが関係しています。
例えば、フランスの国旗はトリコロールの愛称で親しまれ、青・白・赤の縦三分割旗となっており、以下のような意味をしています。
青は自由、白は平等、赤は博愛
この3色は、フランス革命のときにパリ市民軍の赤と青の帽章に白の帽章を組み合わせたことに由来しています。
国の名前にもそれぞれ由来があり、例えば以下のような由来をがあります。
・アイスランドは「氷の国」の意味を持ち、国の大半をおおっている氷に由来
・コロンビアは大航海時代の冒険家コロンブスという人物名に由来
・エクアドルは「赤道」という意味を持ち、国の位置の特色(赤道上にある)に由来
■ 国境の決まり方
山、川、湖、海などを利用した国境線
ザンベジ川(ザンビアとジンバブエ)、タンガニーカ湖(タンザニアやコンゴ民主共和国など複数の国)などがあります。
緯線や経線を利用した国境線
植民地のなごりなどの影響で、エジプトなどアフリカ州の国境線に多く見られます。
■ 島国と内陸国
国土が海洋に囲まれている国のことを島国といいます。
日本、マダガスカル、ニュージーランドなどがあります。
国土が海に面していない国のことを内陸国といいます。
世界の主な内陸国として、以下の国があります。
スイス、オーストリア、モンゴルなど40か国あります。
ちなみに、オーストラリアはまわりを海で囲まれていますが、島国ではありません。
オーストラリアは「オーストラリア大陸」であり、大陸ですので海に囲まれていても島国ではありませんので注意してくださいね。
■ 面積の大きい国
世界で最も面積が大きい国は「ロシア連邦」です。
なんと、ロシア連邦の面積は日本の約45倍で、世界の陸地の約11.5%あります。
カナダも日本の約26倍あります!
面積が大きい国のベスト5は以下の通りです。
2位:カナダ(9,984,670 ㎢)
3位:アメリカ合衆国(9,833,517 ㎢)
4位:中国(9,601,136 ㎢)
5位:ブラジル(8,515,767 ㎢)
※数値は統計資料により異なる場合があります。
■ 面積の小さい国
世界で最も小さい国は、世界遺産にもなっている「バチカン市国」です。
バチカン市国は、0.44K㎡でイタリアの首都ローマ市内にあります。
国の中に国があるなんて不思議ですね。
面積が小さい国のベスト5は以下の通りです。
2位:モナコ公国(2㎢)
3位:ナウル共和国(21㎢)
4位:ツバル(26㎢)
5位:サンマリノ共和国(61㎢)
※数値は統計資料により異なる場合があります。
~日本は~
日本は世界で61番目の大きさです。(377,972㎢)
同じくらいの面積の国は、ドイツ・ベトナム・マレーシアなどです。
★世界の姿★
③緯度と経度
世界の国々や都市の位置は、地球儀や地図上でおおよそは確認できますが、もっと細かく正確な位置を確認する便利な方法が「緯度と経度」です。
緯度と経度を使うと地球上の位置を住所の番地のようにあらわせます。
ここが今回のポイントです。
■ 緯度(いど)
「緯度」は、赤道を0度として南北にそれぞれ90度ずつに分けたものです。
赤道より北側を北緯、南側を南緯といいます。
北極点は北緯90度、南極点は南緯90度です。
そして、同じ緯度を結んだ赤道に平行な線のことを、緯線(いせん)といいます。
■ 経度(けいど)
「経度」は、イギリスのロンドンを通る「本初子午線」を0度として東西をそれぞれ180度に分けたものです。
北極点と南極点を結ぶ本初子午線を0度とし、東側を東経、西側を西経といいます。
そして、同じ緯度を結び北極と南極を結んだ線のことを経線(けいせん)といいます。
ジャニアスのある千葉県船橋市の緯度と経度を調べてみたら以下の通りでした。
E139°59′N35°41′
「東経139度59分、北緯35度41分」と読みます。
地図帳のさくいんなどを使って、自分の住んでいる場所や行ったことがある都市名の緯度と経度を調べてみてはいかがでしょうか?
■ 緯度と気候の関係
地球は球体なので、緯度の高さと地球の地軸の傾きが、気温や昼夜の長さ、季節に関係しています。
まずは「緯度の高低」について理解しよう!
緯度が低い=赤道から近い
⦿緯度による気温のちがい
例えばシンガポールのように緯度が低く赤道近くの国では1年中気温が高く、一方緯度が高い(赤道から遠い)地域では、太陽の光がよく当たる時期と当たらない時期があって気温が低くなります。
北極や南極なんかは氷や雪のイメージがあって、違いがわかりやすいですよね。
日本でも・・・
北海道は寒くて沖縄は暖かいのは緯度の高低(赤道から遠い近い)が関係しているのです!
⦿緯度による昼夜の長さのちがい
日本は中緯度のため、1年を通して昼と夜が必ずありますが、高緯度の北極や南極に近い地域では、夏になると太陽が沈んでも暗くならない白夜(びゃくや)が見られます。
⦿緯度による季節のちがい
緯度の違いと地軸の傾きは、季節の違いも生み出します。
例えば、12月の日本は冬ですが、オーストラリアでは夏になります。
このように北半球と南半球では季節が逆になります。
★世界の姿★
④時差の求め方
■ 時差について
広い世界、大きい地球では、国や地域によって“今の時間”が異なります。
外国で開催されているオリンピックやスポーツ中継をテレビで見ると、普通ではありえない時間帯(真夜中とか!)に生中継されたりすることがありますよね。
それは選手たちが真夜中にプレーしているわけではなく、外国の現地時間が日本の時間と異なるためなのです!
このように、国や地域によって異なる時間を“時差”っていいます。
例えば東京では午後3:00でもイギリスのロンドンでは朝の6:00です。
■ 時差の求め方
時差の求め方は定期テストでも必ず出ますし、中学の社会では唯一と言ってもよい「計算」が必要なので、ここでは詳しく説明しますね!
⦿1時間に経度15度
時差を求めるときに超重要な数字が「15」です!
時差を求める「15」という数字は暗記してください!
「15って何の数字…?」
地球は24時間で1回転(360度)しています。
ということは、
360(度)÷24(時間)=15(度)なので、
1時間あたり15度回転していることになりますね。
つまり…
経度15度につき1時間の時差が生まれるのです!
⦿経度の差を考える
時差は“経度の差”で求められます。
ここではテストでよく出る「ロンドン」と「東京」の時差を考えていきます。
ロンドンの経度:0度
東京(日本)の経度:東経135度
※各国では基準とする経線「標準時子午線(ひょうじゅんじしごせん)」があって、日本の場合は兵庫県明石市を通る「東経135度」が標準時子午線となります。
厳密に言えば東京は「東経139度くらい」ですが、ここでは日本の標準時子午線である「東経135度」で計算します。
時差を考える時は日本のどこの地域でも「東経135度」で計算するということを覚えておいてください。
ロンドンは0度、東京は東経135度なので経度の差は135度ですね。
先ほど説明した経度15度につき1時間の時差を使用するので、135度を15度で割ります。
これでロンドンと東京の時差は9時間ということがわかりました。
⦿いろいろな地域の時差
では他の地域と日本との時差を見てみましょう!
★バグダッド(イラク)と東京の時差
バグダッドの経度:東経45度
東京(日本)の経度:東経135度
まずは経度の差を求めます。
90度を15度で割ります。
バグダッドと東京の時差は6時間です!
★ニューヨーク(アメリカ)と東京の時差
ニューヨークの経度:西経75度
東京(日本)の経度:東経135度
ここでも経度の差を求めますが少し注意!
ニューヨークと東京では西経と東経のちがいがありますね!
西経どうし、東経どうしならひき算で差を基ますが、今回のように西経と東経の経度の差は、ひき算ではなくたし算で求めます。
「え?“差”なのに、たし算…?」
ここは数学の正負の数で習った「数直線」を思い出してください。
真ん中を0として東側をプラス、西側をマイナスって考えます。
西経75度は「−75」東経135度は「+135」になりますね。
では東京を基準にして差を求めると…
=135+75(←たし算になりました!)
時差を求める際に、経度が西経と東経で違う時は”たし算”で差が求められると覚えておいてください!
経度の差を求めます。
210度を15度で割ります。
ニューヨークと東京の時差は14時間です!
⦿時差は進む?戻る?
時差の求め方はわかりましたか?
経度の差を求めて、15度で割れば時差がわかりましたよね。
しかし、時差とひとことで言っても、それが戻る時間なのか進む時間なのかを理解しなければなりません。
では問題です!
さきほど東京とバグダッドの時差は6時間であることがわかりました。
時差が6時間とわかっても、バグダッドの時間が東京の時間より6時間前なのか6時間後なのかが重要ポイントです。
西側に行けば時間が戻り、
東側に行けば時間が進む!
ただし…、日付変更線をまたがない!
では解説です!
東京から見て、バグダッドは西側にあるでしょうか?東側にあるでしょうか?
実は…両方なのです!
地球は丸い為、東京から東へ行っても西へ行ってもバグダッドの方向に行けます。
じゃあどっちなの??って思いますよね!
ここで重要なのが日付変更線!
日付変更線は経度180度を基準に陸地にかからないように地図上に縦の線で引かれています。
基準の地域(今回は東京)から西側に行くか東側に行くかは、日付変更線をまたがない方向に行くのが正解です!
東京から東側に進んでバグダッドに行こうとすれば、日付変更線をまたいでしまうので、日付変更線をまたがない西側に進むのが正解です!
もう一度重要ポイント!
西側に行けば時間が戻り、
東側に行けば時間が進む!
ただし…、日付変更線をまたがない!
東京からバグダッドの時差は6時間。
東京からバグダッドは西へ進める。
つまり・・・
東京より6時間前がバグダッドの時間になるのです!
では問題に戻ります!
4/10の1:00より6時間前を求めるので、4/9の19:00がバグダッドの日時です。
※日本はたまたま、日付変更線より少しだけ西側に位置するので、時差を考えた時はほとんどのケースで日本時間より前の時間になりますね、
ではもう一つやってみましょう!
まずはそれぞれの経度を見ましょう。
ニューヨークの経度:西経75度
バグダッドの経度:東経45度
まずは時差を求めます。
西経と東経で異なるので、数字を足せば経度の差が出ますね。
120度を15度で割ります。
これでニューヨークとバグダッドの時差は8時間だとわかりました。
次にニューヨークを基準にしたときに、バグダッドの時間が先に進むのか後に戻るのかを考えます。
ニューヨークからバグダッドは日付変更線をまたがない場合は西側でしょうか?東側でしょうか?
答えは東側です。西側に進むと日付変更線をまたぐからです。
東側へということは時間が進むということですね。
ということは、ニューヨークの5/15の20:00より8時間後がバグダッドの日時ということです。
答えは…
ニューヨークが5/15の20:00の時、
バグダッドは5/16の4:00
時差の求め方は超大事!!
わかっちゃえばカンタンなので、ビシッと理解しちゃいましょう!
★世界の姿★
⑤地球儀と世界地図
■ 地球儀
地球儀とは地球を小さくした模型で、距離、面積、方位、角度をほぼ正確に表現したものです。
地球上のある地点とある地点の距離を調べたり、方位を調べたりするときに便利です。
しかし地球儀には次のような欠点があります。
・球体なので世界全体を一度に見れない。
・持ち運びには不便である。
地球は球体なので平面上に距離、面積、方位、形などを正確に表すことはできません。
そのため世界地図は、地球儀の欠点を補うものとして作られてきました。
■ 世界地図
メルカトル図法、正距方位(せいきょほうい)図法、モルワイデ図法などの世界地図があり、それぞれ次のような特徴があります。
メルカトル図法:角度が正しい
正距方位図法:中心からの距離と方位が正しい
モルワイデ図法:面積が正しい
世界地図は実際に資料集などで確認して、どの地図が何という図法かを答えられるようにしておきましょう。
中学1年生の【地理】
各地の人々の生活と環境
★各地の人々の生活と環境★
①世界の様々な気候
世界の気候は5つの気候帯(熱帯、乾燥帯、温帯、亜寒帯、寒帯)に分けられます。
では、それぞれの特徴を見てみましょう!
■ 熱帯
1年を通して気温が高く雨が多い気候帯で、赤道を中心に広がっています。
熱帯雨林気候とサバナ気候の2つがあり、以下のような特徴があります。
マレーシア・シンガポールなど
タンザニア、バンコク(タイ)など
<同じ点>1年中高温。
<違う点>年中雨が多いのが、熱帯雨林気候。雨季もあるが、乾季もあるのが、サバナ気候。
■ 乾燥帯
1年を通して降水量が少ないため、森林がほとんど育たない気候帯です。
砂漠気候とサバナ気候の2つがあり、以下の特徴があります。
リビア、リヤド(サウジアラビア)、サハラ砂漠など
モンゴル、マシュハド(イラン)など
※ステップとは、たけの短い草原の事で、遊牧や牧畜などが行われています。
<同じ点>1年中雨が少ない。森林がほとんど育たない。
<違う点>雨がほとんど降らず砂漠化しているのが砂漠気候。雨が少しだけ降り、ステップと呼ばれるたけの短い草原があるのがステップ気候。
■ 温帯
四季の変化がある気候帯で、気温と雨の降り方から、温暖湿潤(おんだんしつじゅん)気候、西岸海洋性気候、地中海性気候の3つがあり、以下の特徴があります。
日本、韓国沿岸部など。
※温帯湿潤気候とも呼ばれています。
フランス、オランダなどヨーロッパの大西洋岸など
イタリア・ギリシャなど地中海沿岸
<同じ点>気温は四季の変化がある。
<違う点>雨の降り方
・1年中降るのが温暖湿潤気候
・差が小さいのが西岸海洋性気候
・差が大きいのが地中海性気候
■ 亜寒帯(冷帯)気候
夏が短く冬の寒さが長く厳しい気候帯で、タイガとよばれる針葉樹林が広がっています。 カナダ、ロシア連邦、日本の北海道などが該当します。■ 寒帯
1年を通して気温が非常に低い気候帯で、雪や氷におおわれる時期が長い。南極や北極
周辺に広がっています。ツンドラ気候と氷雪気候の2つがあり、以下のような特徴があります。
アメリカのアラスカ州やロシア、カナダなど
グリーンランド、南極など
<同じ点>1年中寒さが厳しく樹木が育たない。
<違う点>夏だけこけが生えるのがツンドラ気候。1年中氷と雪が氷雪気候。
■ 高山気候
上で紹介した5つの気候帯とは別に、高山気候と呼ばれる標高が高い地域にみられる気候もあります。
同緯度の低地より気温が低い特徴がありますが、これは標高が100メートル高くなれば0.65度ずつ気温が低くなるという違うルールに基づくものなので注意してね。
・・・アンデス山脈、富士山頂など
★各地の人々の生活と環境★
②暑い地域の暮らし
インドネシアのジャワ島の生活などが該当します。
■ 位置と自然
赤道付近は雨が多く、1年を通して気温が高い熱帯の地域が広がっていいます。
東南アジアに位置するインドネシアに、スマトラ島やジャワ島など、1万3000余りの島々があります。
スコールという一時的な強い風をともなう大つぶの雨が毎日のように降ります。
動植物の種類が豊富。オーランウータンなどの貴重な野生動物も見られます。
■ 暮らし
熱帯林から家や生活用品の材料を得て暮らしています。
伝統的な家は、柱や壁に木材を使い、屋根は木の葉を重ねてつくられています。
床は地面からはなれた高床になっていて、家の中に熱や湿気がこもらないように工夫。
豊富ないも類や米。米と一緒に野菜や魚などを炒めて食べています。味付けは香辛料。
■ 観光客の増加と生活の変化
バリ島は美しいビーチが人気で、飲食店やみやげもの店が多く外国人観光客が増加。
一方で、観光地の開発や農地の拡大などによって熱帯林が減少、伝統的な生活を続けることは難しくなってきています。
★各地の人々の生活と環境★
③乾燥した地域の暮らし
アラビア半島での生活などが該当します。
■ 位置と自然
アラビア半島は西アジアに位置し、広大な砂漠が広がります。
草木がほとんど育たない乾燥した地域で、雨が少ないです。
■ 乾燥した地域での暮らし
地下水が沸くオアシス以外では樹木は育ちません。
水が少なくても育つ小麦やなつめやしのような作物をかんがいなどにより栽培。
乾燥に強いらくだや羊を飼う遊牧もおこなわれています。
■ 水をめぐる生活の変化
サウジアラビアなどの国々では、深い井戸を掘って電動モーターで地下水を大量に組み上げ、そこで得られた水を給水プールにためて、各家庭にパイプを使って送る施設の整備が進んでいます。
そのため、住民が共同で水場を使うことは減っています。
このように水をめぐって、乾燥した地域に暮らす人々の生活は大きく変化しています。
★各地の人々の生活と環境★
④温暖な地域の暮らし
スペインの生活などが該当します。
■ スペインの位置と自然
スペインは、ヨーロッパ南部に位置する地中海沿岸にある温帯の夏に乾燥し、冬に雨が多く降る地中海性気候。
四季の変化がみられ、冬の寒さは亜寒帯(冷帯)の地域と比べると厳しくはない。
■ 地中海性気候での暮らし
熱く乾燥した夏の気候に適したぶどう・オリーブ・オレンジなどのかんきつ類を栽培。
伝統的な住居は小さな窓とブラインド、かべは石灰で白くぬった家が多い。
→夏の強い日差しをさける。
■ 伝統と現代の生活文化の共存
暑い夏の昼間は、なるべく活動を避けるためにシエスタと呼ばれる休憩を2時間ほどとる習慣があります。
2006年にはスペインで公務員のシエスタ廃止→民間の企業へも広がる。
雨が少なく日ざしが強いスペインは、太陽光発電に最適な環境にあり、企業や家庭に普及しています。
★各地の人々の生活と環境★
⑤寒い地域の暮らし
シベリアのヤクーツクの生活などが該当します。
■ シベリアの位置と自然
一年の気温の差が大きい亜寒帯(冷帯)や寒帯。
冬はしばしば-30℃を下回る一方、夏は20℃近くになります。
シベリアはユーラシア大陸の北に広がっています。
■ 寒さが厳しい地域での暮らし
シベリアには永久凍土という凍った土地が広がっています。短い夏の間だけ表面の凍土が溶けるためです。
建物の多くは高床になっていて、がんじょうな2重3重窓や壁も30cmほどの厚みがあります。
外出のときには保温性の高い毛皮のコートや帽子などを着用。
栽培できる作物が限られているので、保存食のほか市場で買うことができる川や湖の魚、牛や豚の肉、乳製品などで生活しています。
■ 外国文化の流入と生活の変化
シベリアでは航空機や鉄道を使って多くの外国製品や外国文化が入って来ており、今では人々の暮らしにとけこんでいます。
アメリカ風のファストフード店や日本料理店など。
また、日本や韓国などの家電製品や生活用品などを輸入しています。
★各地の人々の生活と環境★
⑥高地の暮らし
アンデス山脈にあるペルーのクスコの生活などが該当します。
■ アンデス山脈の位置と自然
赤道の近くにあるアンデス山脈では、標高4,000mを超える高地にも人々が暮らしています。
高山気候で同緯度の低地よりも気温が低く、一年の気温の変化も少ないです。
但し、1日の昼と夜の気温差が20~30℃と大きく、夜は0℃くらいまで冷え込みます。
■ 高地による暮らし
山の急斜面を高いところまで畑にして、寒さに強い作物をつくっています。
標高が2000~3000mくらいのところでは、とうもろこし、それ以上では、じゃがいも。
農業に不向きな4000m以上のところでは、リャマやアルパカの放牧。毛はポンチョや帽子に。
■ 現代化と観光化による生活の変化
現在では携帯電話やインターネットの普及がはじまり、簡単に連絡がとれるようになりつつあります。
天空の城のラピュタのモデルにもなったと噂されている世界遺産のマチュピチュなどは、観光客の増加にともない観光に関係する仕事につく人が増えています。
★各地の人々の生活と環境★
⑦世界各地の衣食住とその変化
■ 主食
毎日の食事の中心となる食べ物のことを何て言うか知っていますか?
答えは、主食です。
では、日本の主食ってなんでしょうか?
大多数のみんなは正解したと思いますが、そう、お米ですね。
ただし、国際化や物流の進展にともない、パンやパスタなどを主食にしている人も徐々に増えてきていますので、将来的にはどうかわっていくかわかりませんね。
では、日本の主食は、なぜお米なのでしょうか?
これは、作りやすかったからです(もちろん、おいしいというのも重要です)。
お米は、日本だけではなく中国南部、東南アジアなど雨が多い地域での栽培に適していたからです。
逆に小麦は、米に比べて雨が比較的少ない地域で栽培されており、昔は手に入りづらかったようです。
そのほか、とうもろこしや、イモ類が主食となっている地域もありますので、教科書などで確認してみてくださいね。
・お米…日本、中国南部、東南アジアなど多雨地域(炊いたり、米粉から作っためん類など)
・小麦…雨が比較的少ない地域(小麦粉にして、パンやパスタに加工)
・その他…とうもろこし(粉状にして調理、家畜の飼料にも用いる)、いも類(南太平洋の島々などで、タロいもやヤムいも)など。
■ 住居
住居もその地域で手に入りやすいものを材料とし、気候に合わせて暮らしやすいよう工夫されています。
たとえば・・・・森林や草地が広がる地域…木や草が素材に。
・湿度の高い地域…東南アジアの高床式住居。
・日差しが強い地域…土や石の厚いかべ、小さな窓。
・乾燥地域…日干しれんがや土の家。
・極寒の地域…シベリアの高床式集合住宅(永久凍土の部分まで、建物の柱)
などの特徴がありますので、なぜそうなのかを気候と関連付けてイメージしてみましょう。
■ 衣類
衣服も、その形や素材は気候のちがいを反映しています。
たとえば・・・・暑い地域…吸湿性の良い木綿(もめん)や麻
・寒い地域…保湿性の良い動物の毛皮。
などの特徴がありますので、なぜそうなのかを気候と関連付けてイメージしてみましょう。
■ 生活の変化
伝統的な生活様式も世界各地での人や物の交流がさかんになるにつれ、生活様式も変化しています。
物資の運搬が容易になったことで、ピザやパスタ、ハンバーガー、カレー、中国料理、すしなどは、世界中で食べられています。
大都市はコンクリートの高層ビル。衣服はTシャツとジーンズ、背広、ワイシャツとネクタイなども世界中に広がってきています。
一方で、祭りや結婚式などでは、その国の地域独自の文化や伝統を受け継がれているようで、伝統的な衣装を着たり、特別な食事がふるまわれたりすることが多く、その国や地域ならではの文化や伝統も受け継がれています。
★各地の人々の生活と環境★
⑧宗教と生活とのかかわり
世界にはさまざまな宗教があり、特に「三大宗教」と呼ばれる宗教は、その特徴をしっかりとらえておいてください。
■ 三大宗教
仏教・キリスト教・イスラム教
東南アジアに広がる。日本の文化に大きな影響。
経(きょう)が教典。
ヨーロッパ、南・北アメリカ、オセアニアに広がる。
聖書(せいしょ)が教典。
北アフリカ、西・中央・東南アジアに広がる。
コーランが教典。豚肉や酒は禁止。
■ 三大宗教以外の宗教
特定の民族や地域と結び付く。
インドを中心に集中しており、特定の民族や地域との結びつきが強い。
牛を神聖視。
イスラエルを中心とした特定宗教。
日本の古くからの宗教。
~世界の宗教別人口の割合~
2位:イスラム教(23.2%)
3位:ヒンドゥー教(13.4%)
4位:仏教(7.1%)
5位:その他の宗教(23.4%)
2015年時点の統計(The World Almanac 2017)
人口の割合だけでみるとヒンドゥー教が3位ですが、ヒンドゥー教は三大宗教とは言われておりません。 これはインドを中心に、特定の民族や地域との結びつきが強く広範囲の国や地域には広がっていないためです。
日本でも、古くからの宗教で神道(しんどう)などがありますので、参考までに覚えておいて下さい。
中学1年生の【地理】
世界の諸地域
ここからは、世界の各地域の特徴を、地域ごとに少し具体的に紹介します。
ここでも世界地図を見て、おおよその場所を確認しながら覚えていきましょう!
★世界の諸地域★
①アジア州
アジアは、世界で最も人口の多い中国(約14億人)をはじめ、多くの人々が暮らしており、アジアの人口は世界の人口の約6割を占めます。
世界の今の人口は約73億人。その6割とすれば、アジアの人口は約44億人となります。
アジアは世界一の人口集中地域という特色があります。
アジアにはおよそ50の国があり、東の端に位置する日本から西の端のトルコまで、アジアはユーラシア大陸の広い範囲をしめています。
では、その他の自然や気候といった特色も見ていきましょう。
■ アジア州の自然環境
⦿ 自然
内陸には、8,000mをこえるヒマラヤ山脈や、チベット高原などの高地が広がり、西アジアのイラン高原やトルコのアナトリア高原まで続いています。
これらの高地から、長江・黄河、メコン川、インダス川などの大河川が流れ出しており、下流域に広がる平野は水田などの農耕地として広がっています。
⦿ 気候
アジアには、寒帯・亜寒帯(冷帯)・温帯・乾燥帯・熱帯まですべての気候帯が見られます。東アジアから南アジアにかけての東部地域は季節風(モンスーン)で四季が見られます。
一方、内陸部や西アジアでは季節風の影響が及ばないので、1年を通して雨があまり降らない乾燥した気候となり、水が利用できる場所に集中して住んでいたり、牧畜が行われています。
■ 農業や文化
⦿ 農業
季節風の影響で雨の多い東アジアから南アジアでは、水田での稲作を中心とした農業が盛んになっています。世界の米の大部分は、アジアで生産されています。
季節風の影響がなく雨のあまり多くない中国北部やインド西部などでは、小麦やとうもろこしなどを作る畑作が行われています。
乾燥した西アジアや中央アジアでは、アラビア半島やモンゴルでみられる遊牧のように、羊やラクダを飼育し、乳や肉を食料とする牧畜が行われています。
オアシス周辺の地域では、かんがいで乾燥に強い作物が栽培されています。
⦿ 文化
三大宗教の仏教・イスラム教・キリスト教などが、歴史の交流の中でアジア全域に広がっています。
主に仏教は、東南アジア(カンボジアなど)・中国・朝鮮半島・日本など東側で信仰されています。
イスラム教は、西アジア・中央アジアをはじめ、マレーシアやインドネシアで信仰されています。
キリスト教は、布教活動や植民地支配とともにアジア各地に広まり、特にフィリピンで信仰されてい ます。
■ 中国
中国と言えば、大人気漫画のキングダムや万里の長城などの観光地、そのほか北京ダックやフカヒレ、ラーメン、餃子などのおいしい中華料理がいろいろありますよね。
今回は、4000年の歴史を持つ中国の巨大な人口+経済発展で、今どのように変化しているかをもう少しだけ詳しくみていきましょう。
⦿ 人口
世界の約2割を占める約14億人(2018年現在)の巨大な人口を抱えています。
そのうち約9割が漢族で、大多数は沿海部に住んでます。
少数民族は西部に位置し、自治区などそれぞれの民族の権利や文化が認められている地域も存在します。
人口の多い中国では、これ以上の増加を抑えるため「一人っ子政策」という政策を行っていましたが、その結果、人口の増加はゆるやかになり、2015年には廃止され、現在では二人目まで認められています。
逆に、日本と同じく高齢化が急速に進んでいるようです。
⦿ 農業
降水量の多い南部では稲作(米)が行われ、降水量の少ない北部では、畑作(小麦・とうもろこし)が行われています。
農産物のほとんどは、人口が多いため国内で消費されていますが、日本などに向けて輸出(茶・野菜・水産物など)も行われています。
⦿ 工業
中国では、1949年の建国以来、国が中心となって独自で工業化を進めて来ましたが、低賃金だったせいか、なかなか成果が出なかったようです。
そこで、日本企業や外国企業向けに外国の設備や技術を導入するための税金を優遇するなど経済特区をシェンチェン(シンセン、深圳)や、チューハイ(ジュハイ、珠海)などに作り、外国企業と共同で工業化をする方針に切り替えました。
すると安くて豊富な労働力を活かし急速に工業化が進展し「世界の工場」と呼ばれるまでに発展しました。
人口の多い国内向け販売も拡大し現在では「世界の市場」としても注目されています。
⦿ 急激な発展に伴う問題点
絶好調と思われる中国でも新たな問題が発生しています。
環境問題と経済格差です。
環境問題とは、急速な経済発展に伴い各地で工場が建設されましたが、環境対策が十分でない工場が多く、各地で工場からの排煙や廃水を原因とする大気汚染や水質汚濁などが発生したことを言います。
経済格差とは、都市化・工業化が進展 した沿岸部と従来の農業中心のままの内陸部で経済的格差が拡大し、内陸の農村部より多くの収入を得ようと沿岸部への都市への出稼ぎが増加しました。
しかし、収入の格差がますます広がっているので、国は内陸部で鉄道や道路、工業団地などの整備・開発を進めています。
これを「西部大開発」と言います。
尚、現在では、現代版シルクロードの「一帯一路」建設ともうまく連動し、貴州や重慶、四川、陝西といった西部地域でも経済成長が進んできています。
■ 東南アジア
東南アジアと言えば、世界遺産でもあるタイの古都アユタヤ遺跡群や古代都市スコータイ、カンボジアのアンコール・ワットなどの遺跡群、さらには、インドネシアのビーチリゾート、バリ島などワクワクするところもいっぱいですよね。
そんな東南アジアも中国と同じように工業化で経済成長が進んで来ています。
ここでは、どのような変化がでてきたかをもう少し詳しく見ていきましょう。
⦿ 東南アジアの国々
⦿ 人口
華人(かじん)と呼ばれる中国系の人々は東南アジアの各地に住み、流通業をはじめさまざまな分野で活躍しています。
⦿ 農業
主食は米で、季節風の影響で気温が高く降水量が多く、稲作が盛ん(年に2回米を作る二期作も行われています)。
タイやベトナムは世界有数の米の輸出国となっています。
そのほか、マレーシア・インドネシア・フィリピンなどでは、プランテーション(大規模農園)で天然ゴムや油やし、バナナなどの輸出用の作物が生産されています。
ベトナムでは、コーヒーの栽培によって貿易の拡大に伴い新しい産地となっています。
⦿ 工業
東南アジアの国々では各地で工業化が進んでいます。
工業団地を整備し、少し前の中国と同じ形で労働賃金の安さを生かして外国企業と共同で工業化を進めています。
シンガポール・マレーシア・タイは、早くから工業化が進んでおり、電気機械工業や輸送機械工業を発達させてきました。
中でもタイは、日本をはじめとする各国の自動車メーカーが進出しており、東南アジアの自動車生産の拠点となっています。
最近は中国などから、さらに賃金の安いベトナムやインドネシアへ工場を移す企業が増えています。
ミャンマーやカンボジアなど工業化の遅れていた国々でも、衣類や生活用品などをつくる工場が進出しはじめました。
一方で、中国と同じように都市部で生活水準は向上しましたが、農村部では収入(経済)格差が拡大し、農村から都市への人口流出が問題となっています。
⦿ ASEAN(東南アジア諸国連合)
東南アジアの農業や工業化への後押しをしているのが、ASEAN(東南アジア諸国連合)です。
貿易や人の交流をさらに活発にして、地域の結びつきをより強くしようとしています。
もともとは戦争や紛争などの問題をかかえていた東南アジア地域の安定をめざすため、1967年に結成されました。
現在は、10か国(東ティモール以外)が加盟していることからASEAN10と言われています。
South-East Asian (東南アジア)
Nations(国々)
の頭文字をとって、ASEAN(アセアン)と略されています。
ASEANは、日本や中国、韓国との関係を深め、さらに距離の近さを活かしてインドやオーストラリアとの貿易も活発で、いっそうの経済発展を地域として目指しています。
■ 南アジア(インドなど)
インドと言えば、やっぱりおいしいカレーですよね。
もちろんそれ以外にも多くの特徴があります。
⦿ 宗教
インドは、約12億人の人口(約14億人の中国に続いて現在2位)があり、将来は世界一になるだろうとの予測が多いようです。
宗教は、 ヒンドゥー教徒が大多数で約72%を占めています。
ヒンドゥー教徒は、カースト制度と呼ばれる身分制度によって、職業や結婚の範囲が限定されてきました。
インド以外の南アジアでは他の宗教を信仰している人も多く、パキスタンやバングラデシュではイスラム教、スリランカなどでは仏教を信仰している人が多いようです。
国によって異なりますので、ついでに覚えておきましょう。
⦿ 農業
南アジアの国々は、気候が同じではなく異なるため、それぞれの気候のちがいを活かした農業が行われています。
例えば、降水量の多いガンジス川下流部では稲作が行われ、降水量の多い上流部では小麦の栽培が行われています。
輸出用作物も多く作っていて、スリランカの茶や、インドのデカン高原の綿花などは昔から有名です。
⦿ ICT関連産業
インドでは近年、情報通信技術(ICT)関連産業の、特にソフトウェアの輸出が大幅に伸びています。
ICTとは、情報技術(IT=Information Technology)と通信技術(CT=Communication Technology)が結合した言葉です。
パソコン・スマートフォンやインターネットなどをイメージすればわかりやすいと思います。
ICT業界では、会社はアメリカの会社(例えばマイクロソフトやGoogleなど)でも働いている技術者は、インド出身者が活躍の場を広げているようです。
伸びている理由は、数字の発明国であるインドの数学教育水準が高かったり、イギリス植民地時代に英語を話せるようになったことや、新しい産業なのでカースト制度の影響を受けにくく、国や州も産業の発展を援助したインドならではの理由があるようです。
尚、中国が経済発展を遂げた今、次はインドだ!と多くの外国企業や日系企業も数多くが進出しています。
■ 西アジア・中央アジア
中国・東南アジア・インドと伸び盛りの地域を見てきましたが、西アジア・中央アジアも注目する必要があります。
例えば、アラブ首長国連邦の1つであるドバイは、砂漠の中のリゾートとして有名で、トム・クルーズのミッション・インポッシブル4の撮影でも使われた世界一高いビルであるブルジュ・ハリファの高さは、なんと828メートル。206階建てだそうです。
そんな、西アジア・中央アジアの今をみていきましょう。
⦿ イスラム教
西アジアや中央アジアはほとんどがイスラム教徒で、断食やメッカへの巡礼が行われます。
尚、西アジアはアラビア語が中心です。
⦿ 石油
西アジアは原油産出量が多く、アラブ諸国は石油輸出国機構(OPEC)で結び付いています。
採掘された原油の大部分は、タンカーやパイプラインで日本や北アメリカ、ヨーロッパなどへ輸出されています。
石油で得たお金(俗に、オイルマネー)で重化学工業化や近代化を推進してきました。
ドバイなどは、石油の恩恵を受けて発展した代表的な都市です。
OPEC(オペック)は、the Petroleum(石油)
Exporting(輸出する)
Countries(国々)
の文字を略したものです。
OPECは西アジアだけでなく、アフリカの産油国や南アメリカのベネズエラなども加盟していますので、注意してください。
⦿ 中央アジア
中央アジアは、原油+天然ガス・石炭・希少金属(レアメタル)などの鉱産資源にめぐまれています。
ソ連解体(1991年)で独立した比較的新しい国が多く、開発は遅れています。
最近では、中国やインドなどの経済が発展したことで、資源の需要は高まっており、カザフスタンなどでは外国企業の進出が増え、開発が進んでいます。
★世界の諸地域★
②ヨーロッパ州
■ ヨーロッパ州の自然
ヨーロッパの位置は、ユーラシア大陸の西の端で、西は大西洋、南は地中海に面しています。
ヨーロッパの中央部には、「アルプスの少女ハイジ」の舞台で、観光地としても知られるアルプス山脈があります。
このアルプス山脈を境にして、南と北で自然環境が大きく変わります。
⦿ 自然
アルプス山脈の北側。
北ドイツ平原や東ヨーロッパ平原やなだらかな丘陵(きゅうりょう)が広がり、国境を超えるライン川、ドナウ川などの国際河川が流れています。
流れがゆるやかで水運に利用されてきました。
北側のそのさらに北側には、スカンディナビア半島があり、フィヨルドという氷河からできた複雑な地形もみられます。
アルプス山脈の南側は、北側よりも山が多く火山もあり、イタリアやギリシャなどでは地震もしばしば発生しています。
⦿ 気候
ヨーロッパも大部分は日本より高緯度にありますが、気候は比較的温暖のようです。 これは、暖流の北大西洋海流と偏西風が寒さをやわらげてくれるからという理由です。
特に大西洋や北海に面した地域は、冬の寒さがあまり厳しくない西岸海洋性気候となっています。
一方、アルプスの南側にある、ギリシャやイタリア、フランス、スペインなどの地中海沿岸の地域は、夏は晴天が続いて乾燥する地中海性気候となっています。
そのため夏は、北側の人々のリゾート地にもなっているようです。
ちなみに、北側のさらに北側のスカンディナビア半島や、東ヨーロッパ、ロシアは、亜寒帯(冷帯)気候になるため、冬の寒さは厳しく夏は短くなっています。
■ ヨーロッパ州の文化
⦿ 宗教
ヨーロッパはキリスト教が多くの地域で信仰されています。
ひと口にキリスト教と言っても大きく三つの宗派が存在します。
①プロテスタント…主にゲルマン系の民族が信仰。
イギリス・ドイツなどに多い。
②カトリック…主にラテン系の民族が信仰。
スペインやフランス、イタリアなどに多い。
③正教会…主にスラブ系の民族が信仰。
ロシアや東ヨーロッパなどに多い。
旧植民地のアフリカやトルコなどからの移民を中心に信仰。
⦿ 言語
ヨーロッパの言語は、さまざまですが、大きく三つの系統に分けられます。
①ゲルマン系言語…ヨーロッパの北西部に多く、英語やドイツ語やノルウェー語などがあてはまります。
②ラテン系言語…ヨーロッパの南部に多く、フランス語やイタリア語やスペイン語などがあてはまります。
③スラブ系言語…ヨーロッパの東部に多く、ロシア語やポーランド語やブルガリア語などがあてはまります。
同じ系統の言語は、同系統の民族の言葉が長い時間をかけて変化してきたものなので、文法や発音が似ているといった共通の特徴がみられます。
現在のヨーロッパでは、アジア、アフリカ、トルコなどから移り住んできた人などが増え、多様な民族が共生する社会を形成しています。
■ ヨーロッパ連合(EU)
東南アジア州では、東南アジア諸国連合(ASEAN)という地域連合を学習しましたが、ここでは、ヨーロッパ州の共同体であるヨーロッパ連合(EU)を学習します。
EUでは、国境のない単一市場をつくることを目的とし、商品取引の自由化のほか労働力取引の自由化に取り組んでいます。
第二次大戦後、アメリカなどの大国への対抗とヨーロッパで戦争を起こさないという考えにより、 ヨーロッパを統合しようとする動きが起きました。
1967年:ヨーロッパ共同体(EC)発足。
フランス・ドイツ(当時は西ドイツ)・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6カ国
ECは、“European Communities”の略称。
“European”は「ヨーロッパの」、
“Communities”は「共同体」を意味する。
1993年:ヨーロッパ連合(EU)発足。
マーストリヒト条約により、1993年にヨーロッパ共同体が発展してヨーロッパ連合へ。
加盟国は28カ国(2018年現在)
東ヨーロッパの一部の国の所得が低く、EU内での経済格差が大きいなどの課題がある。
EUは、“European Union”の略称。
“European”は「ヨーロッパの」、
“Union”は「連合」を意味する。
1990年代から2000年代にかけては、西ヨーロッパだけでなく東ヨーロッパへも加盟国が拡大2018年現在で加盟国は28カ国となっています。
イギリスは上記加盟国に含まれていますが、2016年の国民投票でEUからの離脱を半数以上が支持し、離脱する方向に今はなっています。(※1)
(※1)追記
2020年1月31日(日本時間2月1日午前8時)イギリスEU離脱へ。
イギリスのヨーロッパ連合(EU)離脱をブレグジット(Brexit)と言われています。
Britain(英国)とexit(離脱)を掛け合わせた造語です。
■ ヨーロッパの農業
ヨーロッパでは農業が古くから行われており、気候区分と同じくアルプス山脈を境にして地域によって異なる農業と食文化が見られます。
⦿ 混合農業
アルプス山脈の北側では混合農業が行われています。
これは、小麦やライ麦などの穀物栽培と、豚・牛などの家畜の飼育を組み合わせた農業のことを言います。
栽培する穀物を食料用のほかに、家畜のエサにする飼料用作物(とうもろこし、テンサイなど)も一緒に作れるというメリットがあります。
ドイツでは、ライ麦やじゃがいも、種類が豊富なソーセージ作りが盛んです。
⦿ 地中海式農業
アルプス山脈の南側では地中海式農業が行われています。
イタリアやフランスなど地中海沿岸で行われている農業で、夏の乾燥に強いオレンジやオリーブなどの果樹や、冬の雨を生かした小麦などを栽培しています。
イタリアのオリーブオイルをたっぷり使ったパスタやピザ、魚介料理なんてホントおいしいですよね。
⦿ 酪農
ドイツより北側のデンマークやオランダなどの冷涼な地域やアルプス地方では、乳牛を飼いバターやチーズなどの乳製品を生産する酪農が盛んになっています。
EUでは、域内の食料自給率をあげるように農家や地域に補助金」を出す対策(共通農業政策)をとってきましたが、農業国が多い東ヨーロッパの国々がEUに加わったこともあり、補助金の増加がEUの財政を圧迫するようになってきたので、その見直しが進められています。
一方で、農薬の使用をおさえた観光重視の農業への補助金を増やすなど、新しい農業のあり方を目指す取り組みも始まっています。
■ ヨーロッパの工業
工業は、西ヨーロッパに位置するイギリス・フランス・ドイツを中心に、鉄鋼業や機械工業など近代工業が発展しました。
20世紀以降はアメリカが発展し、ヨーロッパの地位が低下しましたが、EUによる国を超えた統合をめざすように変化しました。
現在は、医薬品や航空機などの先端技術産業、自動車工業などが成長していて、産業の中心地もロンドンやパリ、ミュンヘンなどの大都市近郊に移動しています。
⦿ EUの成功例
遠い場所に旅行に行くときは、飛行機に乗ることも多いと思いますが、世界の航空機メーカーは、2大メーカーと呼ばれる会社が存在します。
1つはアメリカのボーイング社、
もう1つがエアバス社です。
エアバス社は、EU各国の企業が共同で設立したメーカーなのです。
この企業は、航空機の生産で強い力を持っていたアメリカ合衆国に対抗するために、EU各国が力を合わせて航空機を開発し、生産するために設立された会社です。
そして、二大メーカーと呼ばれるまでに成長し、その機体は日本をはじめ、世界の航空会社で広く使われています。
EUの成功例の一つですね。
⦿ EUの問題点
EUの統合による成功例も多数ありますが、2004年以降、EU加盟国が東ヨーロッパまで広がった事により、新たな問題が出てきました。
西ヨーロッパと東ヨーロッパの経済格差の問題です。
一般的には、西ユーロッパは所得が高く、東ヨーロッパは所得が低い傾向が見られます。
そのため、労働者はより高い所得を求め、東から西へ、工場はより安い労働力を求め西から東へ移転する動きが見られました。
結果として、西側のドイツやフランスでは失業者が増えるといった問題が起こっています。
★世界の諸地域★
③アフリカ州
アフリカ州の位置は、かんたんに言えばヨーロッパの下にある大陸です。
日本からは遠いので、なかなか行きたくても行けないという人も多いのではないでしょうか?
とにかく暑そう、ライオンやキリンなどの動物もいっぱいいそう、マサイ族にも会えるかも・・・といったイメージが強いアフリカ州。
ここでは、地形や気候にどのような特色がみられるかをみていきましょう。
■ アフリカ州の自然環境
⦿ 自然
アフリカは、赤道をはさんで南北約8000kmの範囲に広がる大きな大陸です。
世界最大のサハラ砂漠がサヘルと呼ばれる北部の地域に広がっています。
また、位置的にはヨーロッパの下側にあるため、アフリカの北側は地中海に面しており、世界最長のナイル川がエジプトなどを経由して地中海へ流れ込んでおり、その長さは6650メートルもあるそうです。
大陸の東部にはビクトリア湖やタンガーニ湖といった大きな湖もあり、漁業もさかんに行われています。
アフリカ大陸の大部分は高原や台地で比較的標高が高く、東部にはエチオピア高原のほか、コーヒーのブランド名にもなっているキリマンジャロ山などの火山もあります。
⦿ 気候
赤道付近の熱帯を中心として南北へ乾燥帯、温帯が広がっています。
赤道付近の東部地域はサバナ気候の地域で、サバナと呼ばれる熱帯の草原も特徴的です。
サバナには、ライオンや象やシマウマといった野生動物が生息しています。
また、ケニアやエチオピア高原は高地のため年間を通じて涼しく、低地のコンゴ盆地やギニア湾岸は一年中雨が多く、熱帯林が広がっています。
コンゴ盆地の熱帯林には、ゴリラやチンパンジーなどが生息しています。
ちなみにマサイ族は、ケニア南部付近にいるようです。
赤道付近は熱帯林、少し離れると草原へ、さらに離れると砂漠が現れるといった特徴がありますので大まかに覚えておきましょう。
■ アフリカ州の文化と歴史
⦿ 主食と文化
食文化は多様で、おおまかに赤道に近い熱帯地域では「いも類」や「バナナ」、東部・西部・南部地域では「ひえ」や「とうもろこし」、地中海沿岸の北部やアフリカ南端では、「小麦」や「パン」が主食となっています。
気候帯と照らしあわせながら考えてみましょう。
その他、各地で民族音楽やおどりの文化などが特徴的です。
⦿ 言語・宗教・歴史
サハラ砂漠を境にして、北部ではアラビア語とイスラム教信仰が多いです。
南部では、各民族の独自の言語が使われており、近くの民族でも互いに通じないようなことがあるようです。
そのため、南部ではヨーロッパ諸国の植民地時代から使われてきた英語やフランス語が公用語となる場合が多く、キリスト教を信仰している人が多くいます。
⦿ 国境
20世紀後半に多くの国が独立しましたが、植民地時代のときの境界がそのまま国境となった国が多く、国境線が直線になっているところが多く見られます。
■ 産業と開発
アフリカ州は、環境や資源を生かした農業や鉱業が盛んです。
⦿ 農業
農産物は、輸出を目的に作られているものも多くその代表例がカカオ豆です。
カカオ豆はチョコレートやココアの原料に使われ、ギニア湾岸のコートジボワールやガーナは世界有数の生産地として有名です。
他にも、ケニアの茶やタンザニアのコーヒー、マウライのたばこなどが、重要な輸出品として国の経済を支えています。
⦿ 鉱業
鉱産資源に恵まれており、銅(ザンビア)・金(南アフリカ共和国)・ダイヤモンド(ボツワナ)などが重要な輸出品となっています。
また、ナイジェリアやアンゴラでは、原油や天然ガスの開発が外国企業と共同で行われ、重要な輸出品となっています。
最近では、スマートフォンの液晶などにも使われるレアメタルが注目され、南アフリカ共和国を中心に採掘されています。
⦿ 課題と展望
アフリカの多くの国は、カカオ・コーヒー・茶など特定の農産物やダイヤモンドといった特定の鉱産資源の輸出に経済を依存するモノカルチャー経済です。
天候や他国との関係の影響を受けやすく、年によって値段や売れる量が変わるため、国の収入は安定しないという問題が生まれます。
鉄鋼業や機械工業の発達した南アフリカ共和国以外は工業の発達が遅れており、欧米諸国や中国・日本の援助で経済発展を図っていますが、広大な土地が鉱山資源を求める外国の企業に購入され使われることで、もともとその土地で暮らしていた人々の生活がおびやかされる問題も起こってきており、いかに人々の生活を守りつつ開発できるかが、大きな課題になっています。
南アフリカ共和国やナイジェリアなどめざましい経済発展や都市化をとげる国があらわれ注目される地域となっている一方で、人口増加や自然災害による食料不足問題や経済的に不安定な状況にアフリカの多くの国々が悩んでおり、新しい取り組みを行う努力で何とか貧困から抜け出そうとしています。
日本をはじめとする先進国は、アフリカの抱える問題の解決に向けて、技術支援や開発援助などを継続しています。
⦿ アフリカ連合(AU)
ヨーロッパとのつながりが今も強い一方で、アフリカ州内の国々で、AU(アフリカ連合)をはじめとする国際機関をつくり、アフリカ州内での政治・経済的な団結を強めて紛争や解決をめざしています。
AU=African Union の略。
2002年に結成。
★世界の諸地域★
④北アメリカ州
北アメリカ州は、北アメリカ大陸の国々(カナダ、アメリカ合衆国、メキシコ、グアテマラ、コスタリカ、パナマ)と西インド諸島の国々(キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国など)よりなります。
アメリカは、日本の面積の約25倍、カナダは日本の面積の約26倍の大きさがあり、アメリカとカナダの2国で大陸の大半を占めます。
■ 北アメリカ州の自然環境
⦿ 地形
アメリカ合衆国の西側は、4000mを超える高山のロッキー山脈が南北にのびており、東側には標高1000mほどのなだらかなアパラチア山脈がつらなっています。
二つの山脈の間は、グレートプレーンズ、プレーリー、中央平原などの広大な平野があります。
その他、五大湖、ミシシッピ川、ナイアガラ滝や、ボストン、ニューヨーク、ワシントンDCなどの大都市の場所も地図上で確認してみてください。
⦿ 気候
北アメリカ州は熱帯から寒帯までのさまざまな気候がみられます。
アラスカ州とカナダのほとんどは、亜寒帯(冷帯)か寒帯、フロリダ半島の南部やユカタン半島、西インド諸島は熱帯です。
世界的に有名なリゾート地であるマイアミやメキシコのカンクンなどは、この熱帯地域にあります。
その他、温暖湿潤気候、砂漠気候、地中海性気候などの地域もあります。
西インド諸島やメキシコ湾に面した北アメリカ大陸南部・南東部の地域では、秋にハリケーンの被害がたびたび発生します。
ちなみにカジノなど娯楽の街として有名なラスベガスは、もともと砂漠気候の砂漠の中につくられた都市です。
■ 歴史と民族
⦿ 文化と人種
アメリカ合衆国は「人種のるつぼ」と言われ、多様な民族で構成され、多様な文化を作り出しています。
尚、ヨーロッパ系は63.9%、ヒスパニック系は16.3、アフリカ系は12.3%、アジア系は4.7%、その他2.1%、ネイティブアメリカン0.7%の人種・民族構成比になっています。
ネイティブアメリカンは残念ながら少ないですね。
⦿ 先住民と移民
北アメリカは、もともとネイティブアメリカンと呼ばれる先住民が住んでいました。
みんなが想像しやすいインディアンの他に、エスキモー(カナダではイヌイット)などの人々も指します。
しかし、16~17世紀ころより、スペイン・イギリス・フランスといったヨーロッパ北西部やイベリア半島からの植民地建設や移民が増え、先住民のネイティブアメリカンの土地をうばいそのまま移住するようになりました。
アメリカは主に英語。カナダは英語とフランス語。メキシコ以南は主にスペイン語を話す人が多く、そのため宗教はキリスト教を信仰する人が多くなっています。
アフリカからは、奴隷として連れてこられた人々が多かったようです。
⦿ 近年の移民
近年では、ヒスパニックと呼ばれるスペイン語を話すメキシコやカリブ海諸国、南アメリカ州からの移民が増えています。
メキシコ、中央アメリカ、西インド諸島の国々は経済的に豊かでないことが多く、働く場所と高い賃金を求めてアメリカへ移住します。
農場、建築工事現場などでたよりになる労働力として仕事するだけでなく、野球などプロスポーツで活躍する人々もいて様々です。
■ アメリカの農業
⦿ 大規模農業
アメリカは、世界最大の農産物の輸出国。
生産量も世界トップクラスで、広大な土地と大型機械を使い、少ない労働力で広い面積を経営する企業的な農業経営を行っています。
小麦、とうもろこし、大豆などを中心に多くの農産物が作られています。
⦿ 自然環境に合わせた農業
アメリカ合衆国では、地域の気候や土壌などの自然環境にあわせた適地適作の農業が行われています。
西経100度より東側でとうもろこしや大豆などの穀物が作られ、西側で肉牛の放牧による畜産が営まれています。
グレートプレーンズなどの内陸部ではスプリンクラーを使うセンターピボット方式のかんがい農業や五大湖周辺では、酪農による乳製品などが作られます。
⦿ 世界の食糧庫
アメリカ合衆国は「世界の食糧庫」と呼ばれています。
気象や作付けの情報提供や、農産物の種子の開発、農産物の流通・販売を専門に行うアグリビジネス企業が存在し、特に大きな企業は穀物メジャーと呼ばれています。
世界各地に進出し、国際市場での取引では世界の穀物価格に大きな影響を与えています。
■ アメリカの工業
⦿ 先端技術産業
アメリカ合衆国は、先端技術産業に特に力を注いでいます。
先端技術産業とは、航空宇宙産業やコンピュータ関連産業、バイオテクノロジーなどを指します。
先端技術産業は、主に北緯37度より南のサンベルトと呼ばれる地域で発達しました。
中でも、サンフランシスコ郊外にあるシリコンバレーには、関連する世界中の大学や研究機関、ICT関連企業、研究者が集まって高度な技術の開発が進められています。
そしてソフトウェア開発やバイオテクノロジーなどで世界をリードしています。
有名なGoogle、Amazon、Facebook、Appleはアメリカ合衆国の企業です。
⦿ 新しい資源
■ アメリカ合衆国の影響
⦿ 車社会と文化
アメリカ合衆国では、日常的に車を使う生活が人々に浸透しています。
自動車保有率は84.7%もあるそうです(日本は61%。中国は11.5%)。
車社会化が世界で最初に始まり、広い駐車場を持つ巨大なショッピングセンターで大量にまとめ買いをする文化があります。
これは、ものを大量に生産し、大量に消費する生活様式に根付くものですが、最近では資源を大切にする動きも出てきたようです。
⦿ 世界への影響
世界的に活動している企業を多国籍企業と呼び、アメリカ合衆国に本社を置く企業が多くあります。
特にアメリカ最大の都市ニューヨークには、国際連合の本部や金融の中心地ウォール街などがあり、世界の政治と経済の中心地となっています。
企業ではありませんが、エンターテイナーのピース綾部さんや渡辺直美さんもニューヨークに進出していますので、是非応援したいですね。
★世界の諸地域★
⑤南アメリカ州
■ 南アメリカ州の自然環境
⦿ アンデス山脈とアマゾン川
南アメリカ州は日本から見て地球の反対側にある大陸です。
重要なのは、アンデス山脈とアマゾン川。
アンデス山脈は世界最長の山脈で、北のベネズエラから南のチリまで約7500kmもあります。
南アメリカ州の太平洋側の西部で南北に連なっており、標高6000mをこえる高い山々がそびえています。
アマゾン川は、長さこそアフリカ州のナイル川についで世界第2位ですが、川幅が広いため流域面積は世界最大です。
南アフリカ大陸の東側は、カリブ海側にはギアナ高地と大西洋側にはなだらかなブラジル高原が広がっています。
それぞれの位置は地図で確認してみて下さい。
⦿ 熱帯林
赤道に近いアマゾン川流域は、熱帯雨林気候となっており、世界最大の熱帯林が広がっています。
南アメリカ州では、熱帯が特に広く全体の面積の半分以上をしめています。
ラプラタ川下流域に位置するアルゼンチンのブエノスアイレスは、温暖湿潤気候で、周辺にはパンパと呼ばれる草原が広がり、小麦の栽培や牛の放牧が行われています。
その他ペルーのリマは砂漠気候だったり、南アメリカの南端は寒帯で、アルゼンチンとチリにまたがる山岳地帯では氷河がみられたりと、さまざまな気候がみられます。
■ 多様な民族と人々の暮らし
⦿ 文化の融合
ブラジルのリオデジャネイロのカーニバルって知ってます?
「サンバ、サンバ、〇〇〇〇サンバ♪」をイメージしてしまいますが、カーニバルで流れる音楽は、サンバと呼ばれています。
カーニバルは、もともとヨーロッパの謝肉祭(しゃにくさい)というカトリックの宗教行事でしたが、アフリカ系の人々が持ち込んだリズムや太鼓(たいこ)の文化が、ブラジルの地で融合し、はなやかなパレードという新しい観光行事の文化として形になったものです。
このように南アメリカでは、さまざまな地域の文化が融合し、祭りや音楽など独自の文化が形成されました。
⦿ 南アメリカの成り立ち
北アメリカでのネイティブアメリカと同じように、南アメリカもインカ帝国に代表されるように、先住民がつくった高度な文明が栄えていました。
(南アメリカの先住民は、一般的には北アメリカのインディアンと区別して、インディオと呼ばれることが多いようですが、呼称問題もあるようですので詳しく知りたい人は自分で調べてみてね)
しかし、16世紀になると、スペインやポルトガルなどのヨーロッパの人々が進出し植民地を作りました。
その為、現在でも多くの国々でスペイン語やポルトガル語が話され、キリスト教のカトリックが信仰されています。
植民地時代には大きな農場や鉱山で、先住民やアフリカから連れてこられた人々が奴隷として働かされました。
先住民と白人との間では混血も進み、メスチーソと呼ばれる混血の住民も増えました。
その後、19世紀の終わりにはイタリアやドイツ、20世紀になると日本からも多くの移民が入ってくるようになり、現在も共存して暮らしています。
特にブラジルには、約190万人の日系人が暮らしているといわれており、日本のような町なみのみられる日本人街なども存在し、すしなどの和食レストランも人気があります。
⦿ 先住民の暮らしと変化
アマゾン川流域では、先住民が、採集や焼畑農業、川魚をとる漁業などで自給的な生活をおくっていました。
焼畑農業とは、森林や草原を焼きはらい、その灰を肥料として作物を栽培する農業です。
数年たつと土地がやせて、作物が育たなくなるため、別の場所に移動して、これをくり返します。
現在ブラジルでは、先住民の保護地区がつくられ、その中で多くの先住民が暮らしています。
ペルーなどのアンデス山脈周辺側では、とうもろこしやじゃがいもを栽培したり、アルパカを放牧したりする伝統的な生活がみられます。
一方で、開発や観光地化も進み、伝統工芸品の売り上げが生活の支えになるなど暮らしに変化がみられています。
■ 大規模化する農業と発展する工業
⦿ 大農場での農業
ブラジルは、長い間、コーヒー豆の輸出に依存したモノカルチャー経済の国でした。
ブラジルでコーヒー豆を栽培するようになったのは、19世紀の初め頃からです。
大農場で栽培され、今でも世界一のコーヒー豆の産地です。
<コーヒー豆の生産>
1位:ブラジル約32%
2位:ベトナム約16%
尚、それ以前も16世紀頃からさとうきびの大農園などを営むなど、農業を商業目的とした考え方が定着していました。
さとうきびは、砂糖だけでなくブラジルで広く普及しているバイオ燃料の原料としても使われます。
近年では、大豆、オレンジの生産も増えてきているようです。
アルゼンチンでは、昔からパンパを活用して大規模な牧場で牛を育てる牧畜が発展しましたが、大豆の品種改良や栽培技術が進んだため、それまで牧草地であったとこでも作れるようになり、現在では、主要な輸出品となっています。
⦿ 資源に支えられる工業
南アフリカは、鉱産資源に恵まれています。
ブラジルの鉄鉱石、チリの銅、ベネズエラやエクアドルの原油などが輸出されています。
ブラジルやアルゼンチンは、1960年代後半からアメリカ合衆国や日本などの外国企業を受け入れることで、鉄鋼や自動車などの重化学工業を発展させました。特にブラジルでは、航空機の輸出や、大規模な海底油田の採掘も行われるようになり、急速に経済が発展しました。
一方で、アンデス山脈周辺の国々では工業化はあまり進んでおらず、鉱産資源や農産物の輸出にたよった経済が続いています。
近年では、ボリビアにあるウユニ塩原に埋蔵されているリチウムなどの希少金属(レアメタル)が、貴重な資源として注目されています。
■ ブラジルに見る環境問題
⦿ 熱帯林の破壊
ブラジルのアマゾン川流域は、長い間そのままの自然が残る未開の土地でした。
しかし、19世紀には、中流域のマナオスを中心にゴムの大農園が作られ、さらに20世紀後半には、鉱山開発のために熱帯林が切り開かれ、鉄鉱石を運ぶための鉄道が作られました。
その後、アマゾン横断道路も開通し、道路沿いの熱帯林が広い範囲で切り出され、世界各地へ輸出されました。
道路から外側にのびる伐採のあとが、魚の骨にみえることから「フィッシュボーン」とよばれています。
伐採のあと地は、牧場や農地に変えられ、肉牛が飼育されたり、大豆が栽培されたりしています。
⦿ 伐採による影響と保全の取り組み
現在では、アマゾン川流域の熱帯林を保護するためのさまざまな取り組みが行われています。
熱帯林の一部は、国立公園やユネスコの世界遺産などの保護地区に指定され、開発が規制されるようになりました。
また違法な伐採を防止するために、人工衛星から監視するしくみも導入され、日本の技術も生かされています。
保護する目的は、熱帯林の伐採によって二酸化炭素の吸収量が少なくなることによる地球温暖化の進行を予防したり、貴重な動植物や先住民の生活を守るためです。
ちなみにアマゾンの熱帯林は、大量の二酸化炭素を吸収することから「地球の肺(はい)」と呼ばれています。
肺がなくなったら大変ですよね。
⦿ 環境保全をめぐる新たな課題
ブラジルでは、バイオ燃料がガソリンスタンドで売られ、バイオ燃料で走る自動車が普及しています。
バイオ燃料とは、さとうきびやとうもろこしなど、おもに植物を原料としてつくられる燃料です。
大気中の二酸化炭素を吸収して光合成する植物を原料とするため、燃やしても計算上は大気中の二酸化炭素が増加せず、環境にやさしいエネルギーとして注目されています。
日本でも稲やわらなどからバイオ燃料を作る技術が研究されています。
しかし、ブラジル高原では、もともと牧草地であったところが、さとうきび畑に変えられ、農薬や肥料によって地下水が汚染されるなどの新たな環境問題が起こっています。
環境に配慮すること自体は、ものすごく評価されるべきですが、結果として環境をくずす場合もあり、開発と保護のバランスが重要ってことですね。
近年では、ブラジルサンパウロ州を中心に製紙用パルプに加工目的のユーカリ植林が増加し、土壌の養分の劣化と、水分を吸収しやすいといった特性があることから周辺の乾燥化を進めるのではないかといったようなまわりの環境への影響も心配されているようです。
■ 発展と開発にともなう問題
⦿ 都市の開発と町なみの変化
2014年FIFAワールドカップがブラジルで開催されました。これはブラジルの経済発展の著しさを評価され選ばれたものです。ちなみにこの時の優勝国はドイツ。開催国ブラジルは3位でした。
サンパウロやリオデジャネイロのような大都市では、中心部にはオフィスビルや高層マンションが建ち並び市街地が郊外に拡大し、地下鉄も延長されています。
海外からおおぜいの観光客が訪れる海岸沿いの地域でも再開発が進んでいて町なみが日々変化しています。
⦿ 発展と開発にともなう問題
ブラジルの都市部では、産業の発展に伴い、人々の生活水準も高くなりました。
その一方で、内陸部の農村との経済格差も広がりました。
また20世紀後半になると、農業の機械化が進み、農作業にかかる手間が省けるようになったので、それまで農村に住んでいた人の中には職を失い都市へ移動した人もいました。
都市部では、働く機会を求めて多くの人が集まり、急激に人口が増加したことにより、労働条件のととのわない賃金の安い仕事に就く住民も出てきました。
そのような人々が丘陵(きゅうりょう)や河川敷(かせんじき)などに住みついて、スラムとよばれる居住環境の悪い地域が形成されました。
スラムには犯罪などの治安問題のほか、ごみの増加などによる環境問題や衛生問題もあります。今後は、経済格差の解消が求められています。
(中国でも同じような地域格差問題がありましたね。大陸の中国と、自然保護のアマゾン熱帯林のブラジルでは少し事情も異なりますので、今後の動きに注目ですね。)
★世界の諸地域★
⑥オセアニア州
■ オセアニア州の自然環境
⦿ 一つの大陸と三つのネシア
オセアニア州は、オーストラリア大陸と3つのネシアでつくられています。
オセアニアは「オーシャン(大洋)」という言葉からつくられた地域名で、ネシアは「諸島、島々」という意味です。
<3つのネシア>
・ミクロネシア(小さい島々)
パラオ・ミクロネシア連邦・マーシャル諸島・グアム(アメリカ合衆国領)など。
・メラネシア(黒い島々)
パプアニューギニア・フィジー・ソロモン諸島・ニューカレドニア(フランス領)など。
・ポリネシア(多くの島々)
ニュージーランド・サモア・ハワイ(アメリカ合衆国領)・イースター島(チリ領)など。
オーストラリア大陸は、大規模な地震や火山がない安定した地域で、その大部分は標高500m以下のなだらかな平原となっています。
一方、ニュージーランドやパプアニューギニアは、日本と同じように地震や火山が多いことが特徴です。
ニュージーランドでは、温泉を生かした観光や地熱発電が早くから行われてきました。
太平洋には、海底火山が山頂部分を出している火山島や、サンゴ礁が発達している美しい島々があり、多くの観光客が訪れます。
⦿ オセアニアの気候
オーストラリアは、大陸全体の3分の2の地域が年降水量500mm以下となっています。
特に内陸では降水量がきわめて少なく、ほとんどの地域が、乾燥した草原や砂漠でできています。別名、乾燥大陸と呼ばれています。
そのため、人口のほとんどは、比較的降水量が多く農業の盛んな南東部・南西部に集中しています。
ニュージーランドは、ヨーロッパの西部と同じ西岸海洋性気候で、一年中適度な雨が降ることが特徴的です。
このため牧草がよく育ち、羊や牛などの牧畜が盛んです。
太平洋の島々は、雨の多い熱帯の気候ですが、海風が湿気(しっけ)をやわらげてくれるので、一年中過ごしやすい気候となっているようです。
■ 移民の歴史と多文化社会への歩み
⦿ オセアニアの歴史的背景
オセアニアの国々は20世紀初めまでイギリスやフランス、アメリカ合衆国などの植民地だったので、キリスト教を信仰する人が多く、英語やフランス語が公用語となっている国が多くあります。
また現在でも、サイパンやグアムはアメリカ合衆国領、タヒチやニューカレドニアなどはフランス領のままです。
⦿ 移民の国、オーストラリア
オーストラリアは、おもにイギリスからの移民によって開拓が進められたので、第二次世界大戦の直後までは、国民の大多数がイギリス系の人々でした。
第二次大戦以降は、ギリシャなど他のヨーロッパからの移民が増え、白豪主義が撤廃された1970年代以降は、アジアも含めたさまざまな地域からの移民とその子孫が、現在のオーストラリア社会を作りあげてきました。
⦿ 多文化社会への歩み
もともとイギリス色の強かったオーストラリアですが、移民の増加により、さまざまな文化をたがいに尊重しあう多文化社会へと大きく変化しました。
オーストラリアの公用語は、英語だけですが、英語によって社会のまとまりを保つと同時に、英語以外の言語によるテレビ放送や、異文化理解のための外国語教育(例えば、日本語を選択する人も大勢います)など、多文化に配慮したさまざまな取組が進められてきました。
オーストラリア先住民アボリジニーの美術(絵)や独自の伝統文化を尊重するための努力が続いています。
ニュージーランドもイギリス色が強いですが、英語のほかに先住民マオリの言語も公用語と認められていたり、国会でマオリの議席が確保されるなど、多文化社会の一員としてマオリの社会的地位や文化を守る取り組みが進められています。
■ 海外と結びついたオセアニアの産業
⦿ 降水量に左右される農業
皆さんもステーキ屋さんやスーパーなどで、牛肉ブランドの「オージービーフ」って見たり、聞いたりした事ありますよね。
オーストラリアの広大な大陸で、のびのび育った牛さんのお肉が日本を含め多くの国々に輸出されています。
オーストラリアは、乾燥大陸ってよばれていると前に書きましたが、内陸部は正直、農業には向いていません。
大陸の右側や左下の北東部・南東部・南西部は、降水量に恵まれており、牧草がよく育ちます。そのため、肉牛や羊毛用の羊の飼育が盛んです。
特に大陸の右下の南東部や、左下の南西部では、小麦などの栽培と組み合わせた牛や羊の飼育が行われていて、代表的な農業地帯にもなっています。
オーストラリア大陸の右下の南東部には、オーストラリアで最大の都市シドニーがあったり、間違えやすい首都キャンベラなどがあります。
当然、人口が多く都市向けに出荷される野菜や果実の栽培も盛んです。
日本は、オーストラリアの真北にあり、ほぼ同緯度にあります。
赤道をはさんで南半球と北半球のほぼ同経度にもあることから、季節が逆になるという特徴があります。
そのため、本来季節が違って食べられないはずのアスパラガスやたまねぎ、ブロッコリーなどがオーストラリアから日本へ輸入され、1年中皆さんが困らないようにお世話にもなっています。
このように、乾燥地域の多いオーストラリアでは、農業は降水量の影響を強く受けています。
ニュージーランドは、温帯で降水量が十分にあるので、同様に牛や羊の飼育が盛んです。
但し、オーストラリアが、肉牛・羊毛だったのに対し、ニュージーランドは乳牛・羊肉といった違いがあるようです。
⦿ 鉱産資源が豊富なオーストラリア
オーストラリアは、1960年代の輸出の3~4割は羊毛で、輸出の相手国はイギリスが1位でした。
現在の輸出では鉄鉱石や石炭や天然ガスの割合が高く半分弱です。輸出の相手国は、中国が1位で、日本、韓国、インド、アメリカなどが続きます。
鉄鉱石は、大陸左上の北西部で採掘され、石炭は、大陸右側の北東部・南東部で採掘されています。
尚、露天掘りと呼ばれる地表をけずってほり下げていく方法で、大規模で効率の良い採掘が行われています。
■ 強まるアジアとの結びつき
近年オセアニアの国々では、ヨーロッパよりも距離が近く、重要な貿易国でもある中国・日本・韓国などのアジア諸国とも結びつきが強まっています。
アジア太平洋経済協力会議(APEC)などさらに幅広い経済活動協力の取り組みを通じて、さまざまな活動もしています。
APEC=エイペック
(Asia Pacific Economic Cooperation)
観光や修学旅行、ワーキングホリデー、留学などで、お互いの交流が活発になっており、ますます接する機会も増えていく傾向が見られます。
皆さんも有名リゾートのフィジーやパラオの太平洋の島々、シドニーのハーバーブリッジなどの観光地に地域交流を深めるにいけるといいですね。
何度か読み返したり、もっと詳しく知りたいなんて気分になったら、教科書や資料集でも確認してみてね。
じゃ、お疲れさまでした。
中学1年生の【歴史】
古代の日本から弥生時代
中1社会の「歴史」では、古代の人類の出現から室町時代までを学習します。
歴史も覚えることがいっぱい!
資料集を見てイメージしながら覚えていってくださいね!
★古代の日本から弥生時代★
①人類の出現と進化
■ 人類の出現
皆さんは「人」です。昔、某先生は言いました。「人と人が支え合ってるから人なんです。人は人によって支えられ、人の間で人間として磨かれていくんです」
人間として進化してさらにぴかっぴかに磨かれていく人が、今の皆さんです。
人には、知能といった能力があります。
AI(人工知能)も最近話題ですが、作っているのは結局、人です。
では、最初の人っていつ頃に誕生したかわかります?
現在知られている範囲では、今から約700万年前から600万年前にアフリカに現れた猿人と言われています。すでに足で歩いていたと考えられています。
その後、250万年ほど前頃の氷河時代をはさんだ後頃より、打製石器を作りはじめ、狩りや防御をするようになり、木の実などの採取も始めました。
さらに約200万年前に原人が出現。火や言葉を使用することもできるようになりました。
現在の人類の直接の祖先は、約20万年前にアフリカに現れ、世界中に広がった新人(ホモ・サピエンス)と言われています。フランスにあるラスコーの壁画(へきが)は、人類最古の絵画と言われ、この時代の雄牛やバイソンや今はもう絶滅した動物たちで飾られた洞窟の独特の雰囲気を見ることができ、世界遺産にも認定されています。
ここまでの人類が狩りや採取を行って移動しながら生活し、打製石器を使っていた時代を「旧石器時代」と言います。(約1万年前まで続きます。)
打製石器を使った旧石器時代は、約1万年前まで、猿人→原人→新人の順番は覚えておきましょう。
■ 新石器時代
約1万年前に、土器や石をみがいて形を整えた道具(磨製石器)が使われるようになり、この時代を新石器時代といいます。
旧石器と新石器の大きな違いは、土器により食物を煮ることができるようになったことと農耕や牧畜をはじめたことです。
★古代の日本から弥生時代★
②文明の発生
■ 文明のおこり
新石器時代以降、農耕や牧畜が発達すると、次第に人々は食料を計画的に蓄えるようになり、争いも増えるようになりました。そして、国や、支配する者(王や神官、貴族)と支配される者(農民や奴隷)との区別も生まれていきます。
やがて、神殿や宮殿などを持つ都市が生まれ、戦争や、神をまつる時に使う青銅器や鉄器が作られるようになりました。文字もこの頃発明されました。
こうした、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指したものを文明と言い、アフリカやアジアの大河のほとりを中心として発展していきます。
■ 文明の発展
文明の発展したアフリカやアジアの大河は、以下の4つの大河※と文明です。
※実際の川は、5つです。順番は、西側のアフリカから順(地図上の左から右)に記載しております。
⦿ エジプト文明
ナイル川(アフリカ、エジプト周辺)
象形文字(しょうけいもじ)と太陽暦(たいようれき)、ピラミッド
⦿ メソポタミア文明
チグリス川・ユーフラテス川(西アジア、イラク周辺)
楔形文字(くさびがたもじ)と太陰暦(たいいんれき)
⦿ インダス文明
インダス川(南アジア、パキスタン周辺)
インダス文字とインダス式印章
⦿ 中国文明
黄河(東アジア、中国北部)
甲骨文字や優れた青銅器
四大文明は、文明の名前と、その周辺の川の名前、さらに、地図上の場所(位置)を問われる問題は、よく試験に出ます。
では、次の地図上で、それぞれ文明の名前と川の名前を答えてみましょう!
ピンクの空欄に文明の名前、
ブルーの空欄に川の名前を入れてね。
わかりましたか?
では答えです。
メソポタミア文明は、チグリス川とユーフラテス川の2つの川の周辺です。
中国文明は黄河周辺ですが、黄河の下に長江という川があるので、間違えないようにしましょう。
それぞれの地域の文明には、違いもありますが、共通点としては、大河のほとり、青銅器や鉄器、文字など高度な文化、神殿、都市などが発展しています。
ちなみに、エジプトとメソポタミアを含む地域はオリエントと呼ばれ、アルファベットが発明されたのもこの地域のこの時代と言われています。
中国文明については、次でもう少し詳しく見ていきましょう。
■ 中国文明の発展
⦿ 中国文明の発生
中国文明は、紀元前4000年より前に黄河の中・下流域であわなどを、長江の下流域で稲を栽培する農耕文明が生まれました。
紀元前16世紀ごろ黄河流域に殷(いん)という国がおこり、優れた青銅器、漢字のもとになる甲骨文字(こうこつもじ)が発明されました。
次に、紀元前11世紀頃、殷をほろぼして中国を支配したのが、周(しゅう)という国です。
その後、紀元前8世紀から紀元前3世紀ころまで多くの国々が争う戦乱の時代へ突入しました。
この時代は、春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代と呼ばれます。
鉄製の兵器や農具が広がり、孔子が儒学(儒教)おこし、その教えは論語にまとめられました。
ちなみに、大人気マンガのキングダムは、紀元前3世紀頃の春秋戦国時代末期のお話です。
主人公の信の活躍あってか、この後、漢という中国を統一する帝国が誕生します。
⦿ 統一帝国の成立
紀元前3世紀に始皇帝(しこうてい)が中国を統一する帝国を築きました。統一帝国の名前は、秦(しん)と言います。
秦は、文字や長さや重さ、容積の基準、貨幣を統一し、遊牧民からの侵入を防ぐため、万里の長城の建設を行いました。
しかし、政治が厳しかったことから反乱がおこり、統一後わずか15年で滅亡しちゃいました。
秦時代の文化遺産として、西安(せいあん<長安、ちょうあん>)にある始皇帝の墓のそばの兵馬俑(へいばよう)は、兵士や馬をかたどった等身大の焼き物の人形で、約7,000体が東に向けて整然と並べたもので、当然、ユネスコの世界遺産にも認定されています。
次に中国を統一したのが、漢(かん)という国で、中央アジアや朝鮮半島北部まで支配地を拡大し、大帝国を築きました。
この時代(紀元前2世紀頃)に西方との交通路となるシルクロード(絹の道)が開かれました。
中国からは絹織物が西方に伝わり、西方からは馬やぶどう、インドからは仏教が中国へ伝わりました。
漢の時代には、春秋戦国時代に活躍した孔子の儒学が国の教えになって広がり、紙も発明されました。
一方、紀元前前後になると朝鮮半島北部からその北にかけての地域では、高句麗という国がおこりました。(現在の韓国北部から、朝鮮民主主義人民共和国、中国東北部(満州)あたりです)
次は、もともとエジプト文明やメソポタミア文明などの古代文明の栄えたオリエントの地域やヨーロッパの地中海沿岸地域へ戻ってみていきたいと思います。
■ ギリシャ・ローマの文明
⦿ ギリシャの都市国家
オリエントの地域では、紀元前6世紀に、東方から勢力を広げてきたペルシャによって支配されてしまいます。一方、その西方である地中海沿岸のギリシャでは、独自の文明が発達していました。
ギリシャ人は、アテネやスパルタのような都市国家(ポリス)を地中海各地に建設しました。神殿も建設され、アテネのパルテノン神殿は古代ギリシャの代表的な建築物です。
紀元前5世紀にペルシャがギリシャに攻め込んだのですが、ポリスが連合して打ち負かし、ギリシャ文明は、最盛期を迎えるようになります。
⦿ ヘレニズム
紀元前4世紀にギリシャを征服したマケドニアのアレクサンドロス大王が東方に遠征し、ペルシャを滅ぼしました。
ギリシャの文化が東方に広がり、オリエントの文化と結びつきました。
これをヘレニズムと呼びます。
ヘレニズムの代表作は、フランス ルーブル美術館にあるミロのビーナスなどが有名です。ちなみに、ヘレニズムは「ギリシャ風」の意味で、古代ギリシャ人が自らを「ヘレネス」と呼んだことに由来するようです。
⦿ ローマ帝国
ギリシャの西のイタリア半島中部には、ラテン人がローマという都市国家を作っていました。
ローマがイタリア半島全体を支配し、紀元前30年には地中海を囲む地域を統一し、同じころ、皇帝(こうてい)が支配する帝政(ていせい)に変わりました。
ローマ帝国となり、当時世界最大級の都市ローマを首都とし、高度な文明を築きました。道路網や水道や浴場、闘技場などを建設しました。
ローマ帝国は、その後4世紀に東西に分かれ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国となります。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、15世紀まで続きますが、西ローマ帝国は5世紀に滅ぼされ、西ヨーロッパは、小国が分立するようになります。
さて、紀元前後には、各地で宗教も生まれています。
三大宗教を中心にどのようなおこりで、どのように広まったかを見ていきましょう。
■ 宗教のおこりと三大宗教
宗教とは、何でしょうか?
簡単に言うと、神様がいて、教典があって、信じる人がいれば宗教と呼べるのではないでしょうか?
世界には、三大宗教と呼ばれる宗教が存在します。仏教、キリスト教、イスラム教です。
古代文明と近い地域でおこりましたが、それぞれの歴史を見ていきましょう。
⦿ 仏教のおこり
仏教は日本でも古くから信仰されているため、ご存じの方も多いのではないかと思います。
仏教は、紀元前5世紀にインド東部に生まれたシャカ(釈迦)がおこしました。
仏教の教典は、通常経典(スートラ)と呼ばれています。日本以外にも東南アジアや中国などにも伝えられ、それぞれ独自の発達を遂げています。
尚、仏教の生まれたインドでは、三大宗教ではありませんが、古くからの信仰を基にした多神教のヒンドゥー教が広まっています。
多神教とは、世界を維持する神(ヴィシュヌ)や、創造神(ブラフマー)や破壊神(シヴァ)など多くの神が存在しています。
⦿ キリスト教のおこり
キリスト教は、1世紀ごろ西アジアのパレスチナ地方でイエス・キリストがおこしました。キリスト教の教典は、聖書(新約聖書)にまとめられています。
もともとは、同じパレスチナ地方で、ヤハウェを唯一の神とするユダヤ教を発展させたものと言われています。
キリスト教は、ローマ帝国が国の宗教に指定したこともあって、ヨーロッパで広く信仰されるようになり、その後ヨーロッパの世界進出にともない、アメリカやアジア、アフリカにも広がっていきます。
⦿ イスラム教のおこり
最後の一つは、日本ではあまりなじみは無いかもしれませんが、イスラム教です。7世紀、アラビア半島のメッカで生まれたムハンマドがおこしました。
教典は、聖典(コーラン)と呼ばれており、唯一神アラー(アッラー)を信仰しています。
イスラム教は、アラビア半島を中心に西アジアや北アフリカ、東南アジアに広まっています。
さて、次は日本へ目を向けて、古代までの時代どのような状況だったかを見ていきましょう。
★古代の日本から弥生時代★
③縄文文化から弥生文化
■ 日本列島の誕生と縄文文化
⦿ 日本列島の誕生
日本列島が誕生したのは、約1万年前と言われています。それまでは氷河時代で、日本は大陸と陸続きだった時もあるようです。
その頃、人々は岩かげや洞窟に住み、打製石器を使ってマンモス、ナウマン象やオオツノジカ、野牛などを狩猟していました。
群馬県の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)からは、旧石器時代の打製石器が発見されています。
⦿ 縄文文化
縄文文化や縄文時代における主なキーワードは以下の5つです。
土器など日本でも新石器時代の始まりをイメージしながら覚えましょう。
「縄文土器」
表面に縄目の文様がつけられている
「土偶」
魔よけや食物の豊かさを祈るときに使われる
「貝塚」
海岸や水辺にみられる、当時のごみ捨て場
「たて穴住居」
地面をほり柱を立てて、その上に屋根をかけた住居
「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」
縄文時代の代表的な遺跡 (青森県)
尚、縄文時代は、魚や貝が豊富にとれ、くり、どんぐりなどの木の実や、鳥、しか、いのししなどの動物も豊かだったので、農耕や牧畜はあまり発達しなかったようです。
次は、稲作や青銅器などが普及した弥生時代をみて行きましょう。
■ 弥生時代と邪馬台国
⦿ 弥生文化(やよいぶんか)
弥生時代の始まりはだいたい紀元前10世紀から紀元前4世紀頃と言われています。
九州北部に稲作が大陸より伝わり、鉄器や青銅器などの金属器も使われるようになりました。
この頃、赤褐色で薄手でかための弥生土器が発見された地名(東京都本郷区向ヶ丘弥生町)を取って弥生時代と呼ばれています。
人々は、むら(ムラ)をつくり、収穫した稲を高床倉庫に保存していたようです。
やがて、人々の間に貧富の差が生まれるようになり、銅鐸(どうたく)や銅鏡(どうきょう)・銅矛(どうほこ)・銅剣(どうけん)などの青銅器も作られました。
尚、弥生時代の代表的な遺跡は、「吉野ケ里(よしのがり)遺跡」(佐賀県)と「登呂(とろ)遺跡」(静岡県)ですので、覚えておきましょう。
⦿ 国々の誕生
弥生時代に稲作が盛んになったおかげで、社会の仕組みも急速に変わり、小さな国々ができ、人々を支配する有力者(豪族 ごうぞく)や王が現れました。
中国の歴史書「漢書」(かんじょ)地理誌(ちりし)には、以下のように書かれています。
「(紀元前1世紀ごろ)、楽浪郡(らくろうぐん)の海のかなたに倭人(わじん)がいて、100以上の国を造っており、なかには定期的に漢に朝貢(ちょうこう)する国もある」
その少し後の「後漢書」(ごかんじょ)東夷伝(とういでん)にも、次のように書かれています。
「建武中元(けんむちゅうげん」)2(57)年に、倭(わ)の奴国(なのくに)の国王が後漢に朝貢したので、光武帝(こうぶてい)は印綬(いんじゅ)をおくった。」
この時に後漢の皇帝より授かった印綬と考えられるものが、江戸時代に福岡県の志賀島(しかのしま)で、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)として刻まれた金印として発見されています。
⦿ 邪馬台国(やまたいこく)の女王
3世紀になると、中国では後漢がほろび、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の三国時代へ突入し、争いを行っていました。
この頃、倭(わ=日本のこと)には邪馬台国(やまたいこく)という国があり、魏へ朝貢(ちょうこう)していたようです。
魏の歴史書である「三国志」魏書には、倭人についての記述(魏志倭人伝 ぎしわじんでん)があり、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が、倭の30余りの国を従え、魏の皇帝より、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印を授かったと書かれています。
★古代の日本から弥生時代★
④大王の時代
■ 大和政権の発展
3世紀後半ころ、大和(奈良県)を中心とした近畿地方の有力な豪族が連合して大王を支えるようになり、大和政権(やまとせいけん)が生まれました。
大和政権のリーダーは、5世紀頃より、大王(おおきみ、だいおう)と呼ばれるようになり、大王を中心とした仕組みができあがるようになりました。
この時代には、大きなお墓ブームで、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)などの古墳が盛んに作られ、3世紀後半から6世紀末ごろまでを、古墳時代(こふんじだい)と呼びます。
■ 古墳文化
前方後円墳は、古墳の形の一つで、円形と方形(四角形)を合わせた形をしている規模の大きな古墳です。
現在の大阪府堺市にある大仙古墳(だいせんこふん)は、世界最大の面積をもつ前方後円墳です。
古墳には、一緒にさまざまな埴輪(はにわ)が置かれました。埴輪とは、素焼きの土器で、円筒型や人物・家屋・馬などの形をしています。
縄文時代に出てきた土偶(どぐう)と間違いやすいので、注意しましょう。
■ 中国・朝鮮半島との交流
日本が古墳時代だったと言われる3世紀後半から6世紀の中国や朝鮮半島の動きについてみていきましょう。
中国では、魏・蜀・呉の三国時代のあと、4世紀ごろから国内が分裂し、5世紀から6世紀には、南北朝時代を迎えます。
参考までに北朝とは、北魏(ほくぎ)と言い、南朝とは宋(そう)と言う国を指します。
尚、日本は、南朝の宋に使いを送っていたことが、宋の歴史書「宋書(そうしょ)」に記されています。
朝鮮半島では、紀元前後より続いていた高句麗(こうくり)の他に、4世紀頃より百済(くだら)・新羅(しらぎ)の三国で勢力を争っていました。
日本(当時は、倭)の大和政権は、百済や伽耶地域(かやちいき,任那=みまな)と連合して、高句麗や新羅と戦ったことが、好太王碑(こうたいおうひ)に記されています。
■ 大陸文化を伝えた渡来人
朝鮮半島や中国から日本に移り住んだ人々は、渡来人(とらいじん)と呼ばれ、以下のものを伝えました。
鉄製農具・絹織物・土木技術・土器(須恵器 すえき)、漢字、儒学、仏教 などたくさんあります。
渡来人は、主に朝廷で活躍し、記録や財政をまかせられたり、外国への手紙を作ったりするなど、とても活躍したようです。
次は、古墳時代の後の日本の様子を見ていきましょう。
いよいよ聖徳太子(しょうとくたいし)の登場です。
中学1年生の【歴史】
古代国家の歩みと東アジア世界
ここからは国家としての歩みを学習していきます。
有名な人名や政治・争い・文化などが出てきますよ!
★古代国家の歩みと東アジア世界★
①聖徳太子の政治改革
■ 聖徳太子について
聖徳太子(しょうとくたいし)は、 6世紀末頃に天皇を中心とする政治のしくみを整えた人物です。
「聖徳太子」という名前は死語に付けられたもので、本名は「厩戸皇子(うまやとのみこ、うまやどのおうじ)」や「厩戸王(うまやとおう)」です。
⦿ 聖徳太子の政治
聖徳太子が行った主な政治改革は、以下の3つ。
①「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)
家柄にとらわれず、能力や功績のある人物を役人にとりたてるしくみです。
②「十七条の憲法」(じゅうしちじょうのけんぽう)
仏教や儒教の考えを取り入れ天皇につかえる役人の心構えを明示しました。
③「遣隋使」(けんずいし)
隋(ずい)の制度や文化をとりいれるため、小野妹子(おののいもこ)らを隋へ派遣しました。
突然、隋(ずい)と出てきましたが、聖徳太子の時代に中国を支配していた当時の国名です。6世紀頃に南北朝を統一して強大な帝国を築いていました。
⦿ 聖徳太子の役職
聖徳太子は、摂政(せっしょう)という役職についていました。
摂政とは、天皇が女性や子どもだった場合、天皇に代わり政治を行う役職です。
当時の天皇は、推古天皇という女性でした。即位する前は、大和政権の蘇我氏(そがし)や物部氏(もののべし)などの豪族や、地方の豪族が反乱を起こして争っていたため、この争いをやわらげるためだったとも言われています。
聖徳太子は、蘇我氏の蘇我馬子(そがのうまこ)と協力しながら天皇中心の政治改革を進めました。
この頃朝鮮半島では、6世紀に百済や新羅が大和政権と交流のある伽耶地域の国々を併し、7世紀半ばすぎ、新羅が朝鮮半島を統一するようになります。
⦿ 飛鳥文化(あすかぶんか)
飛鳥文化とは、6~7世紀に飛鳥地方(奈良盆地南部)を中心として栄えた日本で最初の仏教文化のことです。
朝鮮半島からの渡来人(特に親交のあった百済など)の子孫が法隆寺建設の中心的役割を果たしました。但し、南北朝時代の中国やインド・西アジアの影響も取り入れられているようです。
これまでの古墳にかわって、寺を造る文化が目覚めたのも飛鳥時代の特徴です。
この法隆寺を建てた責任者は聖徳太子です。
天皇中心の政治改革は、大化の改新でさらに強力な国家建設へと進展していきますので、違いなどを意識しながら見ていきましょう。
★古代国家の歩みと東アジア世界★
②大化の改新
■ 日本初の元号「大化」
皆さんは、令和、平成、昭和などの時代をあらわす日本の元号を知っていると思いますが、日本ではじめて使われた元号が「大化」です。
元号の「大化」にちなんで「大化の改新」と言います。
よく語呂合わせなどで、「645年・虫殺し(むしごろし)大化の改新」などで覚えますが、昆虫愛好家や、滅ぼされる側への気配りも大切ですので、口に出さず頭の中で覚えましょう。
■ 豪族中心から天皇中心へ
聖徳太子の時代は、天皇中心といいながらも、実態は豪族が土地や人々などを支配していました。
大化の改新は、豪族による土地や人々の支配をやめて、国家が直接支配する形を目指す一連の政治改革のことを言います。
具体的には、当時隋の後に中国を統一していた唐(とう)の律令(りつりょう)などの法律や、戸籍、税や兵役などの支配のしくみを参考に、公地・公民(こうち・こうみん)制度として、国家による権力の集中が目指されました。
関連して、朝廷や地方の整備が改められ 戸籍の作成や、外国との戦争に備えて西日本の防備の強化などを行いました。
「戸籍」とは、家族ごとに氏名・性別・年齢が書かれた名簿のようなものです。
■ 大化の改新のきっかけ
大化の改新のきっかけをつくったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/即位して天智天皇)です。
645年に中臣鎌足(なかとみのかまたり/後の藤原鎌足)などとともに豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)親子をたおしました。
■ 律令国家への歩み
このころ朝鮮半島では、唐と新羅が百済・高句麗をほろぼしていました。
日本は、663年に百済を助けるため軍を送りましたが「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)に敗れました。
日本では中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/即位して天智天皇)は、白村江の戦いに敗れたあと、唐と新羅に対する防衛拠点としての太宰府(だざいふ)を守るため、大野城(おおのじょう)と水城(みずき)を今の九州北部に建設しました。それ以外にも、西日本の各地に山城(やまじろ)を築いて、唐や新羅からの攻撃に備えました。
中大兄皇子は、都を大津宮(今の滋賀県)に移して天智天皇として即位し政治改革を進めましたが、没後、後継ぎをめぐって壬申(じんしん)の乱がおきます。
壬申の乱は、天智天皇の子どもである大友皇子(おおとものおうじ)と、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)の争いでした。
壬申の乱の結果、大友皇子に勝利した天武天皇(てんむてんのう=大海人皇子)が即位しました。
天武天皇は、都を飛鳥に戻し、天皇の地位を高めて律令や歴史書をまとめるように命じました。
中央集権国家建設を進め、天武天皇とその後に即位した持統天皇(じとうてんのう 天武天皇の皇后※初の本格的な都として藤原京を建設)のころ、大王(おおきみ)が天皇と称するようになりました。
また、国号として「倭」から「日本」が使われるようになったのもこの頃と考えられています。
★古代国家の歩みと東アジア世界★
③律令国家と平城京
■ 大宝律令
大宝律令は701年に唐の律令にならい制定された法律です。これにより全国を支配するしくみが細かく定められました。
「律令」とは政治を行う上での法律のことです。
「律」は刑罰のきまりで「令」は政治を行ううえでのきまりを指します。
律令にもとづき政治を行う国家を律令国家と言います。
またその中央政府を朝廷といい、日本では天皇と貴族が中心となり運営しました。
■ 平城京
710年に唐の長安(西杏せいあん/シーアン)にならって奈良盆地につくられた都です。
以後の80年あまりを「奈良時代」といいます。
このころ日本では銅銭がつくられました。
富本銭(ふほんせん)は、日本で最初につくれた銅銭です。
和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)などの貨幣も発行されました。
■ 政治のしくみ
平城京は、天皇の住居や太政官(だいじょうかん)をはじめとする役所や役人、市場を中心に都の整備が進められましたが、一方で地方を含む全国を支配する整備も進められました。
中央に2官8省を設置し、五畿七道(ごきしちどう)を整備し、九州拠点として太宰府を、東北拠点として多賀城を設けました。
それ以外の地方は、国(国司こくし)・郡(郡司ぐんじ)・里(里長りちょう/さとおさ)に区分され、国司は、中央の貴族が任命され、国ごとに派遣されました。
郡司は、国司の下におかれた役人で、地方の豪族が任命されました。
⦿ 2官8省とは・・・
2官=太政官、紳祇官
8省=宮内省、大蔵省、刑部省、兵部省、民部省、治部省、式部省、中務省
⦿ 五畿七道とは・・・
五畿=大和、山城、河内、摂津、和泉
七道=東山道、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
さて次回は、奈良時代の律令国家のもとで、人々はどんな暮らしをしていたか見ていきましょう。
★古代国家の歩みと東アジア世界★
④奈良時代のくらし
■ 人々の身分と負担
⦿ 戸籍
大化の改新で登場した天智天皇(即位する前は中大兄皇子)は、初めて全国の戸籍をつくったと言われています。この準備をへて奈良時代の律令国家のもとで、本格的に運用整備されるようになります。
戸籍には、良民(りょうみん)と奴婢(ぬひ)などの賤民(せんみん)に分けて登録されていたようです。
6歳以上の全ての人々には、その身分に応じて口分田(くぶんでん)という農地があたえられ、その面積に応じて祖(そ)という稲の物納による税負担を義務付けられました。
⦿ 班田収授法
⦿ 人々の義務
班田収授法により口分田を与えられた人々には、様々な税の負担が課せられました。祖以外にも調・庸の税、雑徭などの労役、防人などの兵役が義務化されました。
<税や兵役の義務>
租(そ)
=収穫量の約3%の稲を納めさせる税
調(ちょう)
=絹や糸、地方の特産物などを納めさせる税
庸(よう)
=労役の代わりに、布(麻布)を納めさせる税
雑徭(ぞうよう)
=国司のもとで労役を行う義務
防人(さきもり)
=九州北部の防衛につく義務
⦿ 墾田永年私財法
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、743年に出された法令で重要です。
人口の増加に伴い口分田が不足してきたため、朝廷は、新しく開墾した土地は、永久に自分の土地にしてよいことを認めた法令でした。
墾田永年私財法が制定されたことで、力のある貴族や寺院の私有地が各地に広がっていきました。
この貴族や寺社の私有地のことを、荘園(しょうえん)といいます。
「荘(しょう)」は、当時私有地の管理のための事務所の呼び名だったことに由来しています。
こうして、公地・公民の原則は崩れ出していきます。
では、奈良時代の文化はどのような感じだったかを次にみていきましょう。
★古代国家の歩みと東アジア世界★
⑤天平文化
■ 天平文化
奈良時代の文化を天平文化と言います。
これは、聖武天皇(しょうむてんのう)の元号にちなんでそのように呼ばれています。
奈良時代には、唐(とう)の制度や文化を取り入れようと十数回の遣唐使(けんとうし)が派遣されています。
そのため、平城京を中心に栄えた、仏教と唐の影響を受けた貴族中心の国際的な文化という特色があります。
東大寺(とうだいじ)の正倉院宝物の中には、当時の遣唐使が持ち帰ったと考えられる聖武天皇の遺品などがおさめられています。
シルクロードを通って西域から伝わったペルシャ風の水さしや五絃琵琶(ごげんびわ)など楽器も保存されています。
⦿ 奈良時代の仏教と社会
聖武天皇と光明(こうみょう)皇后は、仏教の力で国を守ろうとして、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)、都には東大寺を建て、東大寺に金銅(こんどう)の大仏を造らせました。
また、奈良時代に仏教を広めた僧として、以下の2人が重要ですので覚えて下さい。
鑑真(がんじん)は、何度も遭難し、盲目になっても日本にわたってきた唐の僧で、正しい仏教の教えを広めました。「唐招提寺」(とうしょうだいじ)は、来日した鑑真が開いた寺です。
行基(ぎょうき)は、一般の人々に布教し、橋や用水路をつくりました。
⦿ 歴史書と万葉集
奈良時代は、国家のしくみが整い、国際的な交流が盛んになるにつれ、日本の国のおこりや、天皇が国を治めてきた歴史を記録しようとする動きが起こります。
「古事記」と「日本書紀」は、神話・伝承、記録をもとにまとめられた歴史書です。
古事記の”記”と、日本書紀の”紀”、のケアレスミスには注意してください。
その他の書物では「風土記」(ふどき)は、地方の国ごとに自然・産物、伝説などが記された地理書としてまとめられました。
また和歌も盛んになり、奈良時代の末には大伴家持(おおとものやかもち)が編集したといわれるわが国最古の和歌集と言われる「万葉集」(まんようしゅう)には、天皇や貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民の歌など約4500首がまとめられています。
さて、いよいよ聖徳太子の飛鳥時代からつづく奈良(平城京)の次は、京都(平安京)に都が移されます!
★古代国家の歩みと東アジア世界★
⑥平安京と東アジアの変化
■ 平安京
奈良時代、都では僧や貴族が力をもつようになり、勢力争いが激しくなっていました。そこで、桓武天皇(かんむてんのう)は新しい都で政治を行おうと考えました。
桓武天皇は、まずは、都を784年に京都の長岡京(ながおかきょう)、続いて794年、平安京(今の京都市)に移しました。
以降の鎌倉幕府成立までの約400年を平安時代と言います。平安京なので平安時代です。
■ 桓武天皇の政治
⦿ 律令政治の立て直し
桓武天皇は、8世紀末には唐の勢力が弱まり、東アジアの国々での緊張が緩んだため、律令政治の立て直しを試みます。
班田収授法の実施に努力したり、国司の監督を強化するなどの中央集権の支配の仕組みを立て直そうとしました。
しかし、庶民から見ると兵役・労役・租税の負担が「男>女」だったため、男の登録を少なくする偽籍(ぎせき)が増えて不自然に女性の数が増えるなど、戸籍にいつわりが多くなったこともあり、複雑な手続きが必要な班田収授法が行われなくなりました。
⦿ 蝦夷の抵抗
東北地方では、アテルイを指導者とする蝦夷(えみし)が、朝廷に抵抗していました。
そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命しました。
蝦夷の指導者アテルイの抵抗を抑え、胆沢城、志波城などを築き、東北地方に勢力を拡大していきました。
■ 天台宗と真言宗
奈良時代に力をもつようになった仏教の新しい教えが、平安時代のはじめに唐から日本に伝えられました。
密教(みっきょう)とよばれ、山奥の寺で学問やきびしい修行を行います。そして加持祈祷(おまじないのような儀式)を行い貴族たちの間に広まりました。
その新しい教えの代表が、天台宗(てんだいしゅう)と真言宗(しんごんしゅう)です。
天台宗は、最澄(さいちょう)という人物が日本に伝えました。
比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建てました。
※今の滋賀県
真言宗は、空海(くうかい)という人物が日本に伝えました。
高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建てました。
※今の和歌山県
■ 東アジアの変化と遣唐使の停止
中国の唐は9世紀より急速に勢力がおとろえはじめ、日本からの遣唐使の派遣も間が空くようになりましたが、かわりに新羅(しらぎ)や唐の商品の船が、交易のために日本に来るようになりました。
唐のおとろえと往復の危険を理由に、菅原道真(すがわらのみちざね)の提案により日本は遣唐使を停止(894年)します。
よくある語呂あわせで「白紙(894)にもどす遣唐使」という覚え方もあります。
その後、唐は10世紀はじめに滅亡し、宋(そう、北宋)が中国を統一。
朝鮮では新羅が滅び、高麗(こうらい)が支配するようになりました。
★古代国家の歩みと東アジア世界★
⑦摂関政治と国風文化
■ 摂関政治(せっかんせいじ)
平安時代の中期にあたる9世紀後半から11世紀前半には、藤原氏(ふじわらし)が、自分の娘を天皇の妃(きさき)にして、その子を天皇とすることで勢力を拡大しました。
天皇が幼いときは摂政(せっしょう)に、成人になってからは関白(かんぱく)の位につき政治を独占するようになります。
この政治を摂政と関白のそれぞれの頭文字をとって、摂関政治(せっかんせいじ)と言います。
<摂政>
天皇が幼いときや女性のとき天皇の代わりに政治を行う役職
<関白>
成人した天皇を助けて政治を行う役職
とくに、11世紀前半の藤原道長(みちなが)・藤原頼通(よりみち)の父子の時代は、摂関政治が全盛でした。
結果、藤原氏を中心とする貴族たちは、国司からの贈り物や広大な荘園(しょうえん)から多くの収入を得るようになりました。
■ 国風文化
894年に遣唐使が停止されました。
それ以降、唐からもたらされた文化をもとに、日本独自の文化が生まれました。
平安時代の中ごろの、9~11世紀半ばに栄えたこの文化のことを国風文化といいます。
唐の文化を消化し、日本の風土や生活、日本人の感情に合った貴族が中心の文化といった特色があります。
内容は、仮名文字(平仮名・片仮名)による文学の発達。
漢字をもとに、日本語の発音を表すことができるように生み出された文字です。
かな文字によって、人々の感情が書きあらわされるようになり、数々の文学作品がつくられました。
■古今和歌集
天皇の命令により、紀貫之(きのつらゆき)たちが編集した和歌集です。
■枕草子
清少納言によって書かれた随筆のことです。
■源氏物語
紫式部によって書かれた長編物語のことです
その他、日本の自然・風俗をえがく大和絵・絵巻物のおこり、寝殿造(しんでんづくり)の住居がこの時代に生まれました。
■ 浄土信仰
浄土信仰(じょうどしんこう)とは、平安時代の後期に広まった「念仏を唱えて阿弥陀仏にすがればだれでも死後に極楽浄土に生まれ変わることができる」ことを願う信仰です。
極楽浄土とは、阿弥陀如来が住んでいて苦しみや悲しみのない世界とされています。
浄土信仰は、都の貴族から次第に地方の庶民にも広まっていきました。
また、阿弥陀如来の像やそれをおさめる阿弥陀堂もつくられるようになりました。
その代表的なものが、藤原頼通が建てた宇治(京都府)の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は代表的な阿弥陀堂です。
平等院鳳凰堂は10円玉にえがかれていて有名です。
古代までの日本はここまでです。
日本の誕生から、天皇を中心とした朝廷や貴族の文化やしくみを見てきました。
特に「文化」は興味を持つことが苦手な子が多いので、がんばって覚えてくださいね!
中学1年生の【歴史】
武士の台頭と鎌倉幕府
いよいよ鎌倉時代からはじまる中世からは武士の登場です。
サムライ・もののふなどいろいろな呼び方もありますが、登場と成長の歴史をみていきたいと思います。
★武士の台頭と鎌倉幕府★
①武士の成長
■ 武士の登場
平安時代、地方では豪族が自分の土地を守るため、武装するようになりました。
10世紀になると都では、もともとは弓矢や馬などの戦いの技術にすぐれた武官が朝廷や貴族の警備をすることで、実力が認められるようになっていました。
そして、都の武官と地方の武装した豪族が交わることで、武士(ぶし)がおこり、多くの家来を従えるほどの武士団(ぶしだん)ができました。
武士団では、主人と家の子・郎党・下人などの家来が主従関係で結ばれ、主人を中心にまとまっていきました。
やがて地方では、10世紀の中ごろ朝廷に対して反乱をおこす武士団があらわれました。
北関東では平将門(たいらのまさかど)が反乱(935年)
瀬戸内海(せとないかい)地方では藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱(939年)
朝廷の政治に不満を感じて、それぞれ周辺の武士団を率いて大きな反乱を起こしたのは武士の成長の現れです。
一方、朝廷はこれらの反乱をおさめるために、別の武士団の力で鎮圧するようになりました。
こうして、武士の力が認められるようになりました。
■ 武士団と荘園(しょうえん)
武士団の中でも天皇の子孫である、源氏(げんじ)と平氏(へいし)が勢力を拡大していきました。
源氏は清和(せいわ)天皇、平氏は桓武(かんむ)天皇の子孫です。
11世紀後半には、東北地方の武士どうしの争いをきっかけにした大きな戦乱(前九年合戦・後三年合戦)のあとに、この争いをしずめた源氏の源義家(みなもとのよしいえ)は東日本で勢力を伸ばしました。 争いの地となった東北地方では平泉(ひらいずみ/岩手県)を拠点に成長した奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が力を持つようになりました。
一方、平氏は瀬戸内海の海賊をしずめた平氏が西に勢力を伸ばしていきました。
東北に奥州藤原氏、東に源氏、西に平氏くらいで当時の勢力地を覚えておきましょう。
地方の武士は、地位や武力を利用して土地の開発を進め、領地を都の皇族や貴族、寺社(お寺や神社)に寄進(きしん)しました。
荘園では、武士が農民から年貢(ねんぐ)を徴収するかわりに、その土地を支配する権利を保護してもらい、力をのばします。
荘園以外の公領(こうりょう=国司の支配する土地)でも、武士が犯罪の取り締まりや年貢の取り立てを任されるようになります。
こうして、11世紀の後半には、荘園や公領に館を築いて、地方の社会の中心になっていきます。
★武士の台頭と鎌倉幕府★
②武家政権の成立
■ 院政と武士
平安時代の中ごろから、藤原氏が実権をにぎった摂関政治が行われていました。
その後、後三条(ごさんじょう)天皇という藤原氏と関係がうすい天皇が即位します。
後三条天皇が荘園の増加に伴う整理などの政治改革を行い、後三条天皇の子どもである白河(しらかわ)天皇が即位します。
その後、白河天皇は位をゆずり上皇(じょうこう)になりますが、上皇になった後も政治の実権をにぎり続けました。
上皇や上皇の住まいを「院」といったので、上皇が実権をにぎり行った政治を院政(いんせい)といいます。
白河上皇とその次に院政を行った鳥羽(とば)上皇は、新しい荘園を認める強い力を持ったので、多くの荘園が上皇に寄付されました。
上皇は、寺社を新しく造ったり、厚く保護したので、寺社も多くの荘園を持ったり、僧兵(そうへい/武装する僧)をかかえて勢力を拡大していきました。
上皇は、身分にとらわれずに武士も家臣にするなど、人材を自由に登用していきました。
鳥羽上皇の没後(ぼつご)、政治の実権をめぐり、保元の乱(ほうげんのらん1156年)と平治の乱(へいじのらん1159年)の二つの内乱が起こります。
保元の乱では、朝廷が後白河天皇方と崇徳(すとく)上皇方に分裂し、武力衝突した政変です。
結果は後白河上皇が勝利しましたが、この内部抗争に平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へつながるきっかけの一つになったと言われています。
平治の乱も、藤原家や二条天皇がからむ内乱ですが、結果としては平清盛(たいらのきよもり)が源義朝(みなもとのよしとも)を破って平氏が勢力を広げるようになりました。
尚、余談ですが、保元の乱で敗れた崇徳上皇は、「日本三大怨霊」の一人としてポピュラーな存在です。江戸時代には、物語や歌舞伎のネタとしても描かれています。ちなみに他の二人は、平安時代前半に遣唐使廃止で登場した菅原道真(すがわらのみちざね)と、平安時代中期の関東の豪族である平将門(たいらのまさかど)です。
■ 源平の争い
保元の乱・平治の乱という2つの内乱に勝利した武士の平清盛が、勢力を広げて大きな力を持つようになりました。
その後、1167年に平清盛は武士として初めて、太政大臣(だじょうだいじん)の位につき、娘を天皇の妃(きさき)にしてさらに権力を強め、一族が政治を独占します。
これが、日本で初めての武士政権の成立です。
さらに兵庫の港を整備して、中国の宋(そう)と貿易を行うことで富を蓄えました。
栄華を誇った平氏を描いた平家物語には「平家一門でない者はみんな人ではない」と言った迷言もあります。それほど、この時代の平氏は栄えていたのでしょうね。
しかし平清盛をリーダーとする平氏が、政治を思うがままに動かしたことで、貴族や寺社、地方の武士などから平氏への不満が広がりました。
平氏の政治に不満が広がる中、平清盛が後白河上皇の院政を停止させると、反感を持った源氏を中心とする諸国の武士が一斉に挙兵しました。
この時、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)も兵を挙げ、鎌倉を本拠地として関東地方を支配しました。
頼朝は弟である源義経(みなもとのよしつね)に命じて、平氏を攻めさせます。
そして、1185年に壇ノ浦(だんのうら)の戦い(山口県)で、源氏が平氏を滅ぼしました。
ちなみに、壇ノ浦の戦いでの最大の功労者である源義経は、幼名を牛若丸といい、武蔵坊弁慶とともにTVの時代劇でも何度か画かれている有名な人物です。
また、源氏の白旗と平氏の赤旗が、紅白のチーム分け起源であるとも言われています。
★武士の台頭と鎌倉幕府★
③鎌倉幕府の成立と執権政治
■ 鎌倉幕府のはじまり
平氏が滅亡した後、兄の頼朝と弟の義経は対立するようになりました。
義経は平泉(ひらいずみ)の奥州藤原氏のもとへ逃れましたが、義経は藤原氏に攻められてしまい自刃しました。その藤原氏も、源頼朝により滅ぼされてしまいます。
源頼朝により、1185年に国ごとに守護(しゅご)を、荘園や公領ごとに地頭(じとう)がおかれました。
「守護」は、国ごとにおかれて、国内の軍事・警察の仕事を行いました。
現在だと「都道府県の警察のトップ」のような役職になります。
「地頭」は、荘園や公領ごとにおかれて、税である年貢のとりたてや土地の管理を行いました。
税(年貢)を取り立てるのが、主な仕事です。
こうして頼朝は、本格的な武士の政権である鎌倉幕府を開きました。ここから鎌倉時代(かまくらじだい)の始まりと言われています。
さらに源頼朝は、1192年に征夷大将軍に任命されました。
政治制度が整備されましたが、将軍を頂点として、鎌倉に侍所(さむらいどころ)や政所(まんどころ)や問注所(もんちゅうじょ)などが置かれ、地方には守護・地頭を継続するなど非常に簡素なものでした。
将軍である源頼朝と将軍の家来である御家人(ごけにん)は、土地をなかだちとした御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の主従関係で結ばれていました。
鎌倉幕府は「ギブ&テイク」がしっかりしていたという事ですね。
「御恩」とは、将軍が御家人に領地を与えたり、御家人の領地を保護してあげることです。
「奉公」とは、御家人が幕府や京都の御所(ごしょ)の警備をしたり、将軍のために軍役(ぐんやく)を果たすことです。
「御所」とは、天皇の住まいや政治を行う場所です。
また「軍役」とは、将軍のために戦に出陣することです。
■ 執権政治(しっけんせいじ)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の死後、鎌倉幕府の政治の実権は北条氏に移りました。北条時政(ほうじょうときまさ)は有力な御家人をまとめ、ある役職につきました。
この北条氏がついた役職を、執権(しっけん)といいます。将軍の力を弱めて、執権である北条氏がその地位を独占し実権をにぎった政治のことを、執権政治といいます。
1221年に、ある事件がおきます。
朝廷の勢力を回復しようとして、後鳥羽上皇が幕府を倒すために挙兵したのです。
しかし、源頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)が頼朝の御恩を説いて鎌倉の武士の結束をうったえ、後鳥羽上皇の朝廷軍を破りました。
この戦いを承久の乱(じょうきゅうのらん)といいます。
承久の乱のあと、幕府は朝廷を監視するために、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置し朝廷を監視しました。
また後鳥羽上皇に味方した貴族や西日本の武士の領地を取り上げ、その地頭には東日本の武士を任命しました。
こうして、幕府の支配力は西日本を含む全国にまで広がりました。
執権政治は、執権を中心にした有力な御家人の話し合いで行われていましたが、3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)が、評定(ひょうじょう)と呼ばれる会議を設けてこれを制度化しました。
続いて北条泰時は、1232年に、御成敗式目(ごせいばいしきもく)(貞永式目じょうえいしきもく)という法令を定めました。
御成敗式目は、御家人に評定での判断の基準を示した法律であり、朝廷の律令とは別に独自の法を制定したことで、武士は自信を持ち、長く武士の法律の基準(最初の武家法)のお手本となりました。
さて、ここまでは鎌倉幕府の大きな出来事を中心にみてきましたが、この時代の武士や民衆はどのような暮らしや生活をしていたかを次回見ていきたいと思います。
★武士の台頭と鎌倉幕府★
④武士と民衆の生活
■ 地頭の支配
全国の荘園や公領の地頭に任命された武士は、基本的に板ぶきの簡素な屋敷で、質素な生活をしていました。
一方で、鎌倉幕府や京都御所(天皇のすまい)の警備などで都に住んだ武士の中には、めずらしい品物や新しい文化を持ち帰り、豊かな生活を送るものも生まれてきました。
農民は、年貢を荘園の領主や公領の国司に納めていましたが、地頭になった武士が土地や農民を勝手に支配することが多く、勢力を強めた地頭と、旧来の領主の間では対立や争いがたびたびおこりました。
この争いを解決するため、幕府は裁判で地頭に対し土地を半分与えるなどの下地中分(したじちゅうぶん)を認めたり、地頭が一定の額の年貢をうけ負って、領主に納めるようになったりしました。
こうして、土地に対する地頭の権利は、領主と同じように強くなっていき、農民は領主と地頭の二重の支配を受けるようになりました。
■ 武士の生活
鎌倉時代の武士は、馬を飼い日頃から館やその周辺で笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)・相撲(すもう)などの武芸の訓練を行い、心身を鍛えていました。
このような中で、「弓馬(きゅうば)の道」「武士(もののふ)の道」などと呼ばれる、名誉を重んじ恥をきらう武士らしい心構えが育っていきました。
武士の家は、一族の長である惣領(そうりょう)を中心に子や兄弟などをまとめ団結していました。
領地は分割相続で、女子も相続できたので、女性の地頭も多く生まれていきました。
■ 民衆の動き
鎌倉時代には、同じ田畑で米と麦を交互につくる二毛作(にもうさく)も行われるようになりました。
農作業には牛や馬が利用され、鉄製農具がいっそう普及し、肥料として草や木の灰が使われるようになりました。武士や僧が中心となった土地開発も加わって、農作物の収穫が増えました。
農作業の発展にともなって、農村には、農具をつくる鍛冶屋(かじや)、染物の紺屋(こんや)などの手工業者が住むようになりました。
また、寺社の門前や交通の便利なところなどで決まった日に定期市(ていきいち)が開かれるようになりました。
各地の港や主な道にも、旅人がとまるための宿屋や、商人、手工業者の家ができて、町が生まれました。
次第に村の農民が中心になって、農業用の池や用水路の工事なども行うようになり、村を中心に民衆の団結力が強くなっていきます。
次回は、鎌倉時代の文化や宗教は、どのような特色をもっていたかについてみていきましょう。
★武士の台頭と鎌倉幕府★
⑤鎌倉時代の文化と宗教
■ 鎌倉文化
鎌倉時代には、武士が台頭していく中で、貴族は朝廷の文化を見直すようになり、新しい文化が生まれてきます。
後鳥羽上皇の命により「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)が藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)などの手によって編集されました。
全20巻、約2,000首の和歌がおさめられた超大作です。貴族で、和歌の師匠の家柄だった編者の藤原定家自身の和歌や、武士から僧になった西行(さいぎょう)の他、社会のむなしさを「方丈記」(ほうじょうき)に記した鴨長明(かものちょうめい)などの和歌がのっています。
実は、平安時代後期の源平の争乱の中で、東大寺は平清盛の命をうけた平氏によって焼失していました(南都焼討 なんとやきうち)。
鎌倉時代に、貴族や武士だけではなく民衆からの寄付も集めて建て直されました。
再建された東大寺の南大門(なんだいもん)には、宋から新しい建築様式が取り入れられ、運慶(うんけい)が金剛力士像(こんごうりきしぞう)などの力強い彫刻作品を制作しました。
東大寺再建の影響を受け、鎌倉でも同様に寄付によって大仏(だいぶつ)が造られました。
そのほか、源平の争乱がえがかれた軍記物である「平家物語」(へいけものがたり)は、わかりやすい文章であったことと、琵琶を弾きながら各地をめぐっていた盲目(もうもく)の琵琶法師(びわほうし)によって、語り伝えられたため、多くの人々の間に広まりました。
また、本の三大随筆とよばれるうち、2つの随筆が鎌倉時代に書かれました。
1つは鴨長明によって書かれた「方丈記」(ほうじょうき)、もう1つは兼好法師(けんこうほうし)によって書かれた「徒然草」(つれづれぐさ)です。
参考までに残りの1つは、平安時代に清少納言によって書かれた日本の随筆の起源といわれる「枕草子」です。
■ 鎌倉仏教の教え
鎌倉時代に広がった新しい仏教は、わかりやすく、実行しやすい教えという特徴があります。
6つの宗派とそれを広めた人物は、以下の通りです。
⦿ 念仏系
①法然→浄土宗
源平の争乱の前後に、浄土信仰の教えを徹底することを目指した法然(ほうねん)が「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に生まれ変われると説いて浄土宗(じょうどしゅう)を開き、その教えは武士や民衆に広がりました。
②親鸞→浄土真宗
法然の弟子の親鸞(しんらん)は、阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じる心を強調した浄土真宗(じょうどしんしゅう)を農村で広めました。
③一遍→時宗
一遍(いっぺん)は、踊念仏(おどり念仏)や念仏の札によって布教活動し、時宗(じしゅう)を広めました。
⦿ 題目系
④日蓮→日蓮宗=法華宗
日蓮(にちれん)は、法華経(ほっけきょう)の題目「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を唱えれば、人も国を救われると説き、日蓮宗(法華宗)を開きました。
日蓮宗は法華宗ともいいます。日蓮は他の宗派や幕府を批判したため、幕府によって伊豆や佐渡に流されました。しかし布教活動を続け、武士や農民に教えが広まりました。
⦿ 座禅系
⑤栄西→臨済宗
栄西(えいさい)は、座禅を組み自分の力でさとりを開こうとする禅宗(ぜんしゅう)を宋から伝え、臨済宗(りんざいしゅう)を開いた人です。
鎌倉幕府から保護され、京都の貴族や鎌倉幕府の有力者を中心として広まりました。
⑥道元→曹洞宗
道元(どうげん)は、臨在宗の栄西と同じく、 座禅を組み自分の力でさとりを開こうとする禅宗を宋から伝え、曹洞宗(そうとうしゅう)を開きました。
北陸地方(中部地方の日本海側)を中心として、地方の武士に広まりました。
以上が、鎌倉時代に広まった新しい6つの宗派です。
念仏系・題目系・座禅系などと特徴を中心に覚えましょう。
尚、鎌倉時代には、天台宗や真言宗などの、それまでの仏教勢力のちからもまだ強く、朝廷や幕府のために祈とうを行って、保護されていました。
神への信仰(しんこう)を仏教に取り込んだ考え(神仏習合しんぶつしゅうごう)が広まっていくなか、そのもととなる神道(しんどう)も新たに形成されていきました。
ちなみに神道とは、〇〇教や〇〇宗ではなく「道」です。
これは、日本という土地において先代々から受け継がれてきた神への信仰です。
教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく普遍的な霊的存在への信仰で、日本人ならあたりまえだった伝統的民族信仰で、いわば宗教の起源的な考え方です。
この漠然とした信仰が、鎌倉時代に神道としてあらためて形つくられました。
さて、次回は鎌倉時代の東アジア世界とのかかわりについてみていきたいと思います。
モンゴル帝国と皇帝フビライ・ハンなどが登場します。
中学1年生の【歴史】
東アジアの関わりと社会の変動
★東アジアの関わりと社会の変動★
①モンゴルの襲来と日本
■ モンゴル帝国の拡大
日本で鎌倉幕府が成立して少したった13世紀のはじめころ、チンギス・ハンがモンゴル民族を統一してモンゴル帝国を建てました。
この国は、広大なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国に成長し、その後、モンゴル帝国5代目皇帝(こうてい)であるフビライ・ハンは、現在の北京(ペキン)である大都(だいと)に都を移して、国号(国の名前)を元(げん)と定めて中国を支配しました。
フビライ・ハンは、チンギス・ハンの孫にあたります。
■ 二度の襲来
フビライ・ハンは、朝鮮半島の高麗(こうらい)を従え、さらに日本を従えようとして使者を送ってきましたが、鎌倉幕府の執権であった北条時宗(ほうじょうときむね)がこの要求を拒否してしまいました。
それで、元は征服していた高麗の軍とともに、日本の九州北部に攻めてきました。
元軍は2回にわたり日本を襲来してきており、1回目の戦いを文永の役、2回目の戦いを弘安の役といいます。
また、この2度にわたる元軍の襲来のことを元寇(げんこう)といいます。
1274年におこった文永の役では、元軍の集団戦法や火器(火薬を使った武器)によって、幕府軍は苦戦しました。
しかし、元軍は海上の戦いに不慣れだった上に(モンゴル軍の主力は騎馬軍団)、高麗との内紛(仲間割れ)がおこったり暴風雨に襲われたりしたため、引き揚げてしまいました。
1281年の弘安の役では、海岸に築かれた石の防壁(ぼうへき)や幕府の御家人の活躍により、元軍は上陸できませんでした。
さらに暴風雨にあって大損害を受けたため、元軍は引き揚げてしまいました。
このような戦いはありましたが、元と日本との民間の貿易は行われており、禅宗(ぜんしゅう)の僧も日本と元の間を行き来しました。
■ 鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代、経済活動がさかんだった畿内(きない/近畿地方)を中心に、幕府の政治や荘園の支配に反抗し年貢を奪う武士があらわれました。このような武士は悪党(あくとう)とよばれました。
悪党のような武士があらわれる一方、幕府に従っていた御家人は分割(ぶんかつ)相続によって生活が苦しくなっていました。
分割相続とは、「親の財産である土地を子どもたちが全員で分ける相続のやり方」です。分割相続だと世代が経つほど、1人あたりの土地が狭くなるため、御家人の生活は苦しくなっていました。
生活が苦しくなった御家人は借金をして土地を失う者もいました。
そこで、幕府は御家人を救うため、借金を帳消しにする徳政令(とくせいれい)を出しました。
しかしその結果、御家人に金を貸す者がいなくなったため、借金ができなくなった御家人の生活はますます苦しくなってしまいました。
生活が苦しい御家人や、元寇(げんこう)で十分な恩賞(おんしょう)をもらえなかった御家人の間で、幕府への反感が強まっていきました。
幕府のおとろえの状況をみて、朝廷の後醍醐天皇は政治の実権を取り戻すため倒幕を計画しましたが、失敗して隠岐(おき/島根県)に流されてしまいます。
しかしその後、有力御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)、新興武士である楠木正成(くすのきまさしげ)らが御醍醐天皇の味方として倒幕に挙兵したため、1333年に鎌倉幕府は滅亡してしまいました。
御恩と奉公で成り立っていた鎌倉幕府ですが、御家人の奉公に対する十分な御恩を与えられなくなったことが滅亡の要因とは、なんとも皮肉なものですね。
さて、次回は鎌倉幕府がほろんだ後の、政治の変化をみていきましょう。
★東アジアの関わりと社会の変動★
②南北朝の動乱と室町幕府
■ 南北朝の動乱
1333年に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が天皇を中心とした公家(貴族)中心の政治を行いました。
これを建武の新政(けんむのしんせい)といいます。
しかし、鎌倉幕府を滅ぼすのに功績があった武士を冷遇し公家を重視した政治であったため武士に不満が広がり、わずか2年で失敗してしまいました。
後醍醐天皇に不満を持つ武士たちのリーダーとなった足利尊氏は、武士を中心とした政治の復活を目指し、後醍醐天皇を退けて京都に新しい天皇を立てました。
これを北朝(ほくちょう)といいます。
足利尊氏は北朝から1338年に征夷大将軍に任命されて、室町幕府(むろまちばくふ)を開きました。 一方、後醍醐天皇は吉野(よしの/奈良県)に逃れて南朝をたてました。
朝廷が北朝と南朝に分かれた後、約60年にわたり日本各地で北朝側と南朝側の勢力による争いがつづきました。
南北朝の動乱の続いた約60年間を南北朝時代(なんぼくちょうじだい)といいます。
■ 室町幕府の発展
1392年、足利尊氏の孫で室町幕府3代将軍である足利義満(あしかがよしみつ)によって、南朝と北朝が統一されました。
幕府がただ一つの中央政権となり、朝廷の政治的、経済的権限を吸収していきます。
将軍補佐役に管領(かんれい)が置かれ、管領は、足利一門である斯波氏(しばし)・細川氏・畠山氏の有力な守護が任命されました。
鎌倉時代の執権にあたる役職が、室町幕府の管領にあたります。
続いて、京都の警備を行い御家人を統率する部署として侍所(さむらいどころ)が置かれました。
侍所の長官には、四職(ししき/ししょく)とよばれた京極(きょうごく)氏・山名氏・赤松氏・一色氏の有力な守護が任命されました。
中央には、それ以外にも幕府の財政を取り扱う政所(まんどころ)や、裁判や記録を行う問注所(もんちゅうじょ)が置かれました。
中央は、管領という呼び方以外は鎌倉幕府の仕組みと大きくは変わりませんね。
一方、鎌倉時代に幕府があった鎌倉には地方機関として鎌倉府(かまくらふ)が置かれ、関東を支配しました。
鎌倉府の長官は、鎌倉公方(かまくらくぼう)といい、足利氏の一族がその地位についていました。鎌倉公方は、次第に独立した勢いを示すようになり、幕府とも対立するくらいになっていきます。
それ以外の地方でも、南北朝の動乱に伴い、鎌倉時代から続く地方の守護は、室町幕府から強い権限を与えられました。
守護は、自分の領土を増やし、領土内の地頭や武士を自分の家来にしていき、やがて一国を支配するようになりました。
このような守護を守護大名といいます。
守護は、国や城に館を築き、国司(こくし)の権限を持つようになって支配を強め、領地を拡大しました。
さて、次回は室町時代の日本と東アジア諸国との関わりをみていきたいと思います。鎌倉時代はモンゴル襲来などありましたが、果たして逆もあるのでしょうか。
★東アジアの関わりと社会の変動★
③東アジアとの交流
■ 日明貿易(にちみんぼうえき)
14世紀、中国では元がおとろえ、漢民族の王朝、明(みん)が建国されました。
元がおとろえるころから、西日本の武士や商人、漁民の中には、集団を作って貿易を強要し、船をおそい、大陸沿岸をあらす集団、倭寇(わこう)があらわれだしました。
南北の朝廷統一に成功した足利義満は、明の要請で倭寇を取り締まり、日明貿易(にちみんぼうえき=勘合貿易/かんごうぼうえき)を開始しました。
正式な日本の貿易船に勘合(かんごう)という明からあたえられた証明書をもたせ、朝貢(ちょうこう)の形で行われました。
日明貿易では、日本は刀や銅、硫黄(いおう)、漆器(しっき)などを輸出し、かわりに銅銭や生糸(きいと)、絹織物、書画、陶磁器(とうじき)などを大量に輸入したので、日本の経済や文化は大きな影響を受けました。
■ 朝鮮との貿易
14世紀末、李成桂(りせいけい/イソンゲ)が高麗をほろぼして朝鮮国(ちょうせんこく)を建国しました。
朝鮮では、ハングルという文字を作成し、独自の文化が発展しました。
朝鮮も、明と同じく、日本に倭寇(わこう)の取りしまりを要求し、さらに貿易を求めてきたため、義満は日朝貿易(にっちょうぼうえき)を始めました。
日本各地の守護大名(しゅごだいみょう)が貿易船を送って絹織物や仏教の経典(きょうてん)を輸入し、日本からは銅や硫黄が輸出されました。
■ 琉球(りゅうきゅう)王国の成立
現在の沖縄県である琉球では、日本の平安時代後期から鎌倉時代における12,13世紀ころは、各地にグスクと呼ばれる石積みの城を本拠地として、按司(あじ)と呼ばれる豪族(ごうぞく)が勢力を争っていました。
日本の南北朝時代や室町時代にあたる14世紀になると北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三つの勢力にまとまり、それぞれが明と朝貢(ちょうこう)貿易を始めました。
15世紀はじめに中山の王になった尚(しょう)氏が沖縄島を統一し、首里(しゅり)を都とする琉球王国(りゅうきゅうおうこく)を建国しました。
那覇港(なはこう)は明との朝貢貿易、日本・朝鮮・中国・東南アジアとの中継(なかつぎ)貿易で栄えました。
■ アイヌ民族の交易
蝦夷地(えぞち/北海道)では、13世紀からアイヌ民族が狩り・漁・交易をおこなっていました。
14世紀になると、津軽(つがる/青森)の十三湊(とさみなと)の豪族であった安藤(あんどう)氏がアイヌの人々と交易を行うようになり、15世紀には、蝦夷地南部に本州(ほんしゅう)の人々(和人/わじん)が館(たて)を築いて進出しました。
交易をめぐり不満を持つようになったアイヌの人々は、15世紀なかば首長コシャマインが蜂起(ほうき)しましたが、和人(わじん)が勝利し、さらに蝦夷地支配を強めました。
さて、次回は、室町時代の産業の発展と、人々の生活における変化をみていきましょう。
★東アジアの関わりと社会の変動★
④産業の発展と民衆
■ 農業の進歩と手工業の発展
室町時代は、南北朝の動乱が終わって社会が安定したことや、明(みん)、朝鮮(ちょうせん)との貿易によって各地で産業が盛んになりました。
当時の明の通貨である明銭(みんせん)も日明貿易で大量に日本に入ってきたようです。
農業では、鎌倉時代にはじめられた同じ田畑で米と麦を交互に作る二毛作(にもうさく)が広がりました。
かんがい用の水車や、肥料に牛馬のふんや堆肥(たいひ)の肥料が使われるようになり、収穫量も増えました。また、麻・茶・くわ・あいの栽培も広まりました。
15世紀は地球規模での寒冷期に当たり、日本でも何度も飢饉(ききん)が起こりました。
これに対して、村ごとに農民がそろって田植えをおこなうなど、村の結びつきが強まり、ききんに強い農作物や新たな品種の栽培が進むなど、農業などで新しい技術が広く取り入れられるようになりました。
手工業では、職人が登場します。
京都市の西陣(にしじん)や福岡市の博多(はかた)の絹織物をはじめ、陶器(とうき)、紙、酒、油などの特産物が各地で生産され、刀や農具を造る鍛冶(かじ)・鋳物(いもの)業なども盛んになりました。
金・銀・砂鉄なども採掘されました。
■ 商業の発展と都市の成長
商業では、定期市(ていきいち)が広く各地に生まれ、開かれる日数も増えました。
定期市の取り引きに宋(そう)や明から輸入された宋銭(そうせん)や明銭(みんせん)などが使用されることが多くなり、交通の要所では、物資を運ぶ馬借(ばしゃく/陸運)や、問(とい/運送・倉庫)と呼ばれる運送業をかねた倉庫業者が活動しました。
お金の貸付を行っていた土倉・酒屋などの金融業者、商人や手工業者などは、同業者ごとに座(ざ)という団体を作り、武士や貴族、寺社にお金などで税を納めて保護を受け、営業を独占する権利を認められました。
こうした商業の発展で、港町や寺社の門前では都市が発達しました。
なかでも、次に出てくる応仁(おうにん)の乱から復興した京都では、町衆(ちょうしゅう)と呼ばれる裕福な商工業者によって寄合で政治を行う自治都市となり、祇園祭(ぎおんまつり)も盛大にもよおされました。
また、日明貿易や日朝貿易で栄えた博多や堺(さかい)でも、自治(じち)が行われました。
■ 村の自治
農村では、有力な農民を中心に村ごとにまとまり、自治組織の惣(そう)が作られ、農業用水路の建設や管理、燃料や飼料をとる森林の利用や管理などについて、村のおきてを定めました。
農民は団結して荘園(しょうえん)領主や守護大名(だいみょう)にも抵抗するようになり、多くの村が結び付き、年貢を減らす交渉などをしました。
15世紀になるとお金の貸付を行っていた土倉や酒屋をおそって借金の帳消しなどを求める土一揆(つちいっき、どいっき)が近畿地方を中心に広がりました。
★東アジアの関わりと社会の変動★
⑤応仁の乱と戦国大名
■ 応仁の乱
15世紀半ばに強い権力をふるった第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が暗殺されます。
その後幕府では、守護大名の間で勢力争いが起こりました。
第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)のとき、有力守護大名であった細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)が将軍のあとつぎ問題で対立しました。
1467年から京都を中心に東軍(細川方)、西軍(山名方)に別れ、11年争うことになります。この戦乱を応仁の乱(おうにんのらん)と言います。
京都での応仁の乱をきっかけとした戦乱は、全国各地に広がり、地方の社会に新たな動きが始まりました。
地方の新しい動きとしては、一揆が続くようになります。
例えば、京都府南部の山城で発生した山城国一揆(やましろのくにいっき)では、武士と農民が一体となって戦い、守護大名を追放し自治を行いました。
現在の石川県である加賀(かが)の一向一揆(いっこういっき)では、浄土真宗の信仰で結び付いた武士や農民たちが守護大名をたおし約100年の自治を行うようになりました。
■ 戦国大名の登場と城下町
応仁の乱以降は、身分の下の者が力をのばし、上の者に打ち勝つ下剋上(げこくじょう)の風潮が広がったのがこの時代の一番の特徴です。
守護大名の地位をうばって実権をにぎったり、守護大名が成長したりして、各地に戦国大名(せんごくだいみょう)が登場してきます。
戦国大名は、近くの大名との戦争に備えて、領国の武士をまとめ、強力な軍隊を作りました。
また、城の周辺に家来(けらい)・商工業者を集めた城下町(じょうかまち)を造り、独自の分国法(ぶんこくほう)を定めて武士や民衆の行動を取りしまるなど、荘園(しょうえん)領主の支配を認めず、領国を統一して支配する新しい政治を行いました。
さらに戦国大名は、大規模な用水路の建設などによって農業を盛んにし、鉱山の開発や交通路の整備に力を注ぎました。
また、座(ざ/=同業者の団体)の廃止や市場の整備を行って商工業を保護し、領国を豊かにしていきました。
戦国大名が保護をあたえた博多の商人によって開発された島根県の石見(いわみ)銀山では、技術の改良で質の高い銀を生産できるようになり、中国に輸出され、ヨーロッパでも知られるようになり、世界の経済に影響を与えました。
尚、石見銀山で培われた技術は、後に佐渡(さど)金山などにももたらされ、やがて戦国大名は、金貨や銀貨を造るようになりました。
★東アジアの関わりと社会の変動★
⑥室町時代の文化
■ 室町文化
室町時代は、武家文化に公家文化や禅宗文化がとけ合う新たな文化を生み出しました。
鎌倉時代に栄西(ようさい/えいさい)が宋からもたらした茶を飲む習慣は、茶の産地を当てる会が行われるなど茶の湯の流行を生み出しました。
人々が集まって和歌の上の句と下の句を次々によむ連歌(れんが)や、生け花なども楽しまれました。
観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子が、それまで貴族や武士に親しまれていた猿楽(さるがく)にほかの芸能の要素を取り入れながら、現在でも続く能(のう)を大成し、幕府の保護も受けました。
鎌倉時代に発展した新しい宗教(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗など6つ)は、室町時代には、宗派ごとに教団を作るようになりました。
浄土真宗は、北陸や近畿地方の武士や農民に広まり、日蓮宗は京都や堺の商工業者に広まりました。
禅宗は、京都や鎌倉の五山(ござん)と呼ばれるそれぞれの五つの主要寺院を中心に幕府の保護を受け、僧が文芸や外交、貿易に活躍しました。
室町文化の中でも足利義満(あしかがよしみつ)の時期の文化を北山文化(きたやまぶんか)といい、京都の北山の別荘に建てられた金閣(きんかく)には、公家の文化と武家の文化が融合された室町文化の特色がよく表現されています。
■ 武士の文化の成長
室町時代後期にあたる15世紀後半からは、武家の簡素で気品のある文化が発展しました。
寺院の部屋の様式を武家の住居に取り入れた書院造(しょいんづくり)では、床の間が設けられ、書画や生け花がかざられるようになりました。
絵画では、宋や元で盛んだった、墨(すみ)一色で自然などを表現する水墨画(すいぼくが)が、禅宗(臨済宗・曹洞宗など)の僧を中心に描かれました。
また、龍安寺(りょうあんじ)の石庭(せきてい)のような、石や木をたくみに配置した庭園が造られましたが、これに力を発揮したのが、河原者(かわらもの)と呼ばれていた人々でした。
河原者とは、中世に非課税地を求めて河原に住みつき、卑賤視された労働や雑芸能などに従事した人々のことを言います。
河原者の中には、歌舞伎役者など芸能を職業とする人々もいましたが、この人々は、歌、踊り、楽器の演奏などを行ない、その代償として物乞いをしていました。
また、一定の場所に留まらず、全国を放浪し、その居住場所は、当時無税だったと考えられている河原でした。
このようなことから、芸能人のことも河原に住む物乞い=河原者と呼ぶようになりました。
ただの物乞いではなく、全国ツアーのストリートライブで大金を稼ぐミュージシャンのような感じですね。
尚、室町時代の前半は、足利義満の金閣に代表される貴族+武士の北山文化でしたが、室町時代後半の武士の簡素や気品を取り入れた文化は、東山文化(ひがしやまぶんか)と呼ばれています。
この時期の文化は、足利義政(あしかがよしまさ)が京都の東山の別荘に建てた銀閣(ぎんかく)に特色があらわれています。
北山文化は「金閣」、東山文化は「銀閣」をイメージしながら覚えましょう。
■ 民衆への文化の広がり
民衆の経済的な成長とともに、民衆にも文化が広がりました。
能が、各地の農村の祭りでも楽しまれ、能の合間には、民衆の生活や感情をよく表した喜劇の狂言(きょうげん)も演じられました。
地方の武士や都市の有力者は、寺で子どもに教育を受けさせるようになりました。
こうした教育によって「一寸法師(いっすんぼうし)」などの御伽草子(おとぎぞうし)と呼ばれる絵入りの物語が盛んに読まれました。
守護大名の上杉氏に保護されてきた足利学校(栃木県)には、広く日本国内から人材が集まり、儒学(じゅがく)を学びました。
そこでさまざま情報を交換した人々は、その知識を各地に伝えました。
足利学校は「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などと言われ、室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府だったようです。
1868年まで存続し、その後1915年に図書館となっています。
以上で、中学1年の歴史の範囲は、終了です。
何度か読み返したり、もっと詳しくしりたいなんて気分になったら、教科書やインターネットなどでも確認してみてね。お疲れさまでした。
次は、2年生の歴史でお会いしましょう。
十字軍・ルネサンス・宗教改革といったヨーロッパの動きや日本では戦国時代から学習していきます。お楽しみに。
このページでは、中学1年生の社会で押さえておきたい重要ポイントについて説明させていただきましたが、他にも“絶対に取りこぼしてはいけない基本”はたくさんあります。
中学生から暗記量が一気に増える「社会」は、地理も歴史も”興味のあるなし”によっても大きく差が付く教科ですね。
「社会にニガテ意識がある…」
「社会なんて大っキライ!」
「暗記のやり方がわからない…」
そんなお子さんは今すぐ対策をしていかないと、学年が上がるにつれて暗記量が増えていき、どんどん勉強が大変になってしまいます。
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体験授業でお会いできることをスタッフ一同、楽しみにしています。
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社会(中1)です。
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